チックと呼ばれる声をすら聞きつける。今日からあの時代を振り返ってみたら、それも謂《いわ》れのあることであろう。いかに言ってもわたしたちは踏み出したばかりで、経験にも乏しく、殊《こと》に自分なぞは当時を追想する度《たび》に冷汗《ひやあせ》の出るようなことばかり。それにしても、わたしたちの弱点は歴史精神に欠けていたことであった。もしその精神に欠くるところがなかったなら、自国にある古典の追求にも、西欧ルネッサンスの追求にも、あるいはもっと深く行き得たであろう。平田|禿木《とくぼく》君も言うように、上田敏君は「文学界」が生んだ唯一の学者である。その上田君の学者的態度を以《もっ》てしてもこの国独自な希臘《ギリシャ》研究を残されるところまで行かなかったのは惜しい。西欧ルネッサンスに行く道は、希臘に通ずる道であるから、当然上田君のような学者にはその準備もあったろう。しかし同君はそちらの方に深入りしないで、近代象徴詩の紹介や翻訳《ほんやく》に歩みを転ぜられたように思われる。

 このスケッチをつくっていた頃、わたしは東京の岡野知十君から俳諧雑誌「半面」の寄贈を受けたことがあった。その新刊の号に斎藤|緑雨《りょくう》君の寄せた文章が出ている。緑雨君の筆はわたしのことにも言い及んである。
 「彼も今では北佐久郡の居候《いそうろう》、山猿《やまざる》にしてはちと色が白過ぎるまで」
 緑雨君はこういう調子の人であった。うまいとも、辛辣《しんらつ》とも言ってみようのない、こんな言い廻しにかけて当時同君の右に出るものはなかった。しかし、東京の知人等からも離れて来ているわたしに取っては、おそらくそれが最後に聴きつけた緑雨君の声であったように思う。わたしは文学の上のことで直接に同君から学んだものとても殆《ほと》んどないのであるが、しかし世間智に富んだ同君からいろいろ啓発されたことは少くなかった。鴎外《おうがい》、思軒《しけん》、露伴、紅葉、その他諸家の消息なぞをよくわたしに語って聞かせたのも同君であった。同君|歿後《ぼつご》に、馬場|孤蝶《こちょう》君は交遊の日のことを追想して、こんなに亡くなった後になってよく思い出すところを見ると、やはりあの男には人と異なったところがあったと見えると言われたのも同感だ。
 紅葉山人の死を小諸の方にいて聞いた頃のことも忘れがたい。わたしは一年に一度ぐらいしか東京の
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