んでいた家の前を通った。その辺は旧士族の屋敷地の一つで、M君が一年ばかり借りていたのも、矢張古めかしい門のある閑静な住居《すまい》だ。M君が小諸に足を停《とど》めたころは非常な勉強で、松林の朝、その他の風景画を沢山作られた。私がよく邪魔に出掛けて、この辺の写生を見せて貰ったり、ミレエの絵の話なぞをしたりして、時を送ったのもその故家《ふるや》だ。
細い流について、坂の町を下りると、私達は同僚のT君、W君なぞが誘い合せてやって来るのに逢う。Oは暮に兄の仕立屋へ障子張の手伝いに出掛け、身体の冷えてゾクゾクするのも関わず、入浴したが悪かったとかで、それから急に床に就き、熱は肺から心臓に及び、三人の医者が立合で、心臓の水を取った時は、四合も出たという。四十日ほど病んで十八歳で、亡くなった。話好きな理学士を始め、同僚の間には種々とOの話が出た。Oは十歳位の頃から病身な母親の世話をして、朝は自分で飯を炊き、母の髪まで結って置いて、それから学校に行ったという。病中も、母親の見えるところに自分の床を敷かせてあった、と語る人もあった。
葬式はOの自宅で質素に行われるというので、一月三十一日の午前十時頃には身内のもの、町内の人達、教師、同窓の学生なぞが弔いに集った。Oは耶蘇《やそ》信者であったから、寝棺には黒い布を掛け、青い十字架をつけ、その上に牡丹《ぼたん》の造花を載せ、棺の前で讃美歌《さんびか》が信徒側の人々によって歌われた。祈祷《きとう》、履歴、聖書の朗読という順序で、哥林多《コリンタ》後書の第五章の一節が読まれた。私達の学校の校長は弔いの言葉を述べた。人誰か死なからん、この兄弟のごとく惜まれむことを願え、という意味の話なぞがあった時は、年老いたOの母親は聖書を手にして泣いた。
士族地の墓地まで、私は生徒達と一緒に見送りに行った。松の多い静な小山の上にOの遺骸《いがい》が埋められた。墓地でも賛美歌が歌われた。そこの石塔の側、ここの松の下には、Oと同級の生徒が腰掛けたり佇立《たたず》んだりして、この光景《ありさま》を眺めていた。
暖い雨
二月に入って暖い雨が来た。
灰色の雲も低く、空は曇った日、午後から雨となって、遽《にわ》かに復活《いきかえ》るような温暖《あたたか》さを感じた。こういう雨が何度も何度も来た後でなければ、私達は譬《たと》えようの無い烈しい春の饑
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