る老農夫である。私はこの人から「言海」のことを聞かれて一寸驚かされた。
「昔の恥を御話し申すんじゃないが、私も若い時には車夫をしてねえ、日に八両ずつなんて稼《かせ》いだことが有りましたよ。八両サ。それがねえ、もうぱっぱと湯水のように無くなって了う。どうして若い時の勢ですもの。私はこれで、どんなことでも人のすることは大概してみましたが、博奕《ばくち》と牢屋の味ばかしは知らない――ええこればかしは知らない」
 こう隠居が笑っているところへ、黄な真綿帽子を冠った五十|恰好《かっこう》の男が地味な羽織を着て入って来た。
「定屋さんですよ」と辰さんが呼んだ。
 地主は屋《うち》の内《なか》に入って炬燵に身を温めながら待っていた。私が屋外《そと》の庭の方へ出ようとすると、丁度水車小屋の方から娘が橋を渡って来て、そこに積み重ねた籾《もみ》の上へ桝《ます》を投げて行った。辰さんは年貢の仕度を始めた。五歳ばかりの小娘が来て、辰さんの袖《そで》に取縋《とりすが》った。辰さんが父親らしい情の籠《こも》った口調で慰めると、娘は頭から肩まで顫《ふる》わせて、泣く度に言うこともよく解らない位だった。
「今に母さんが来るから泣くなよ」
「手が冷たい……」
「ナニ、手が冷たい? そんなら早く行ってお炬燵《こた》へあたれ」
 凍った娘の手を握りながら、辰さんは家の内へ連れて行った。
 谷に面した狭い庭には枯々な柿の樹もあった。向うの水車も藁囲《わらがこ》いされる頃で、樋《とい》の雫《しずく》は氷の柱に成り、細谷川の水も白く凍って見える。黄ばんだ寒い日光は柿の枯枝を通して籾を積み上げた庭の内を照らして見せた。年老いた地主は白髪頭《しらがあたま》を真綿帽子で包みながら、屋《うち》の内から出て来た。南窓の外にある横木に倚凭《よりかか》って、寒そうに袖口《そでぐち》を掻合《かきあわ》せ、我と我身を抱き温めるようにして、辰さん兄弟の用意するのを待った。
「どうで御座んすなア、籾の造《こしら》え具合は」
 と辰さんに言われて、地主は白い柔かい手で籾を掬《すく》って見て一粒口の中へ入れた。
「空穂《しいな》が有るねえ」と地主が言った。
「雀に食われやして、空穂でも無いでやす。一俵造えて掛けて見やしょう」
 地主は掌中《てのひら》の籾をあけて、復た袖口を掻き合せた。
 辰さんは弟に命じて籾を箕《み》に入れさせ、弟は
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