山の古い城主の中には若くて政治的生涯を離れ、僧侶の服を纏い、一生仏教の伝道に身を委《ゆだ》ねた人のあったことを聞いた。又、白隠《はくいん》、恵端《えたん》、その他すぐれた宗教家がそこに深い歴史的の因縁を遺していることも聞いた。
 こういうことは高原の地方にはあまり無いことだ。第一そういう土地柄で無いし、そういう歴史の背景も無いし法《のり》の残燈を高く掲げているような老僧のような人も見当らない。私は小諸辺で幾人かの僧侶に逢ってみたが、実際社会の人達に逢っていると殆んど変りが無いように思った。養蚕時が来れば、寺の本堂の側《わき》に蚕の棚《たな》が釣られる。僧侶も労働して、長い冬籠《ふゆごもり》の貯えを造らなければ成らない。

     山に住む人々の二

 学問の普及ということはこの国の誇りとするものの一つだ。多くの児童を収容する大校舎の建築物《たてもの》をこうした山間に望む景色は、一寸他の地方に見られない。そういう建物は何かの折に公会堂の役に立てられる。小諸でも町費の大部分を傾けて、他の町に劣らない程の大校舎を建築した。その高い玻璃窓《ガラスまど》は町の額のところに光って見える。
 こういう土地だから、良い教育家に成ろうと思う青年の多いのも不思議は無い。種々《さまざま》な家の事情からして遠く行かれないような学問好きな青年は、多く国に居て身を立てることを考える。毎年長野の師範学校で募集する生徒の数に比べて、それに応じようとする青年の数は可なり多い。私達の学校にも、その準備の為に一二年在学する生徒がよくある。
 一体にこの山国では学者を尊重する気風がある。小学校の教師でも、他の地方に比べると、比較的好い報酬を受けている。又、社会上の位置から言っても割合に尊敬を払われている。その点は都会の教育家などの比でない。新聞記者までも「先生」として立てられる。長野あたりから新聞記者を聘《へい》して講演を聴くなぞはここらでは珍しくない。何か一芸に長じたものと見れば、そういう人から新智識を吸集しようとする。小諸辺のことで言ってみても、名士先生を歓迎する会は実に多い。あだかも昔の御関所のように、そういう人達の素通りを許さないという形だ。
 御蔭で私もここへ来てから種々《いろいろ》な先生方の話を拝聴することが出来た。故福沢諭吉氏も一度ここを通られて、何か土産話を置いて行かれたとか。その事は私
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