は後で学校の校長から聞いた。朝鮮亡命の客でよく足を留めた人もある。旅の書家なぞが困って来れば、相応に旅費を持たせて立たせるという風だ。概して、軍人も、新聞記者も、教育家も、美術家も、皆な同じように迎えらるる傾きがある。
 こうした熱心な何もかも同じように受入れようとする傾きは、一方に於いて一種重苦しい空気を形造っている。強《し》いて言えば、地方的単調……その為には全く気質を異にする人でも、同じような話しか出来ないようなところがある。
 それから佐久あたりには殊に消極的な勇気に富んでいる人を見かける。ここには極くノンキな人もいるが又非常に理窟《りくつ》ッぽい人もいる。
 何故こう信州人は理窟ッぽいだろう、とはよく聞く話だが、一体に人の心が激しいからだと思う。槲《かしわ》の葉が北風に鳴るように、一寸したことにも直《すぐ》に激《げき》し顫《ふる》えるような人がある。それにつけて思出すことは、私が小諸へ来たばかりの時、青年会を起そうという話が町の有志者の間にあった。一同光岳寺の広間に集った時は、盛んな議論が起った。私達の学校のI先生なぞは、若い人達を相手に薄暗くなるまでも火花を散らしたものだ。皆な草臥《くたび》れて、規則だけは出来たが、到頭その青年会はお流れに成って了ったことが有った。
 一方に、極く静かな心を持った人と言えば、私達の学校で植物科を受持っているT君なぞがその一人であろう。ほんとに学者らしい、そして静かな心だ。どんな場合でも、私はT君の顔色の変ったのを見たことが無い。小諸からすこし離れた西原という村から出た人だ。T君の顔を見ると私は学校中で誰に逢うよりも安心する。

     山に住む人々の三

 警察と鉄道に従事する人達は他郷からの移住者が多い。町の平和を監督する署長さんと言えば、大抵他の地方の人だ。ここの巡査の中にはでも土地から出て奉職する人なぞがあって、ポクポクと親しみのある靴の音をさせる。
 鉄道の方の人達は停車場の周囲《まわり》に全く別に世界を造っている。忍耐力の強い越後人より外に、この山の上の鉄道生活に堪《た》え得るものは無いとも言われている。大手に住む話好きな按摩《あんま》から、今の駅長のことを聞いたことが有った。この人は新橋から直江津《なおえつ》に移り、車掌を五年勤め、それから助役に七年の月日を送って来たという。同じ山の上に住んでも、こうした懸
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