》を見せながら、肉屋の亭主に新年の挨拶などをした。検査室にも、待合室にも松が飾ってあって、繋留場《けいりゅうじょう》では赤い牝牛《めうし》が一頭と、黒牛が二頭繋いであった。
 中央の庭には一頭の豚を入れた大きな箱も置いてあった。この庭は低い黒塗りの板塀《いたべい》を境にして、屠場《とじょう》に続いている。

     屠牛の二

 黒い外套に鳥打帽を冠った獣医が入って来た。人々は互に新年の挨拶を取換《とりかわ》した。屠手の群はいずれも白い被服《うわっぱり》を着け、素足に冷飯《ひやめし》草履という寒そうな風体《ふうてい》で、それぞれ支度を始める。庭の隅にかがんで鋭い出刃包丁《でばぼうちょう》を磨《と》ぐのもある。肉屋の亭主は板塀に立て掛けてあった大鉞《おおまさかり》を取って私に示した。薪割《まきわり》を見るような道具だ。一方に五六寸ほどの尖《とが》った鉄管が附けてある。その柄には乾いた牛の血が附着していた。屠殺《とさつ》に用いるのだそうだ。肉屋の亭主は沈着《おちつ》いた調子で、以前には太い釘《くぎ》の形状《かたち》したのを用いたが、この管状の方が丈夫で、打撃に力が入ることなどを私に説明《ときあか》した。
 南部産の黒い牡牛《おうし》が、やがて中央の庭へ引出されることに成った。その鼻息も白く見えた。繋いであった他の二頭は遽《にわ》かに騒ぎ始めた。屠手の一人は赤い牡牛の傍《そば》へ寄り、鼻面《はなづら》を押えながら「ドウ、ドウ」と言って制する。その側には雑種の牡牛が首を左右に振り、繋がれたまま柱を一廻りして、しきりに逃《のが》れよう逃れようとしている。殆《ほと》んど本能的に、最後の抵抗を試みんとするがごとくに見えた。
 死地に牽《ひ》かれて行く牡牛はむしろ冷静で、目には紫色のうるみを帯びていた。皆な立って眺《なが》めている中で獣医は彼方此方《あちこち》と牛の周囲《まわり》を廻って歩きながら、皮をつまみ、咽喉《のど》を押え、角を叩きなどして、最後に尻尾《しっぽ》を持上げて見た。
 検査が済んだ。屠手は多勢|寄《よ》って群《たか》って、声を励ましたり、叱ったりして、じッとそこに動かない牛を無理やりに屠場の方へ引き入れた。屠場は板敷で、丁度浴場の広い流し場のように造られてある。牛の油断を見すまして、屠手の一人は細引を前後の脚《あし》の間に投げた。それをぐッと引絞めると、牛は中心
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