を保てない姿勢に成って、重い体躯《からだ》を横倒しに板の間の上に倒れた。その前額のあたりを目がけて、例の大鉞《おおまさかり》の鋭い尖った鉄管を骨も砕けよとばかりに打ち込むものがあった。牛は目を廻し、足をバタバタさせて、鼻息も白く、幽《かす》かな呻《うめ》き声を残して置いて気息《いき》も絶えんとした。
この南部牛のまだ気息の残ったのを取繞《とりま》いて、屠手のあるものは尻尾を引き、あるものは細引を引張り、あるものは出刃でもって咽喉のあたりを切った。そのうちに多勢して、倒れた牛の上に乗って、茶色な腹の辺《あたり》と言わず、背と言わず、とんとん踏みつけると、赤黒い血が切られた咽喉のところから流れ出した。砕けた前額の骨の間へは棒を深く差込んで抉《えぐ》り廻すものもあった。気息のあるうちは、牛は身を悶《もだ》えて、呻《うめ》いたり、足をヒクヒクさせたりして苦んだが、血が流れ出した頃には全く気息も絶えた。
黒い大きな牛の倒れた姿が――前後の脚は一本ずつ屠場の柱にくくりつけられたままで、私達の眼前《めのまえ》に横たわっていた。屠手の一人はその茶色の腹部の皮を縦に裂いて、見る間に脚の皮を剥《む》き始めた。また一人は、例の大鉞を振って、牛の頭を二つ三つ打つうちに、白い尖った角がポロリと板の間へ落ちた。この南部牛の黒い毛皮から、白い脂肪に包まれた中身が顕《あら》われて来たのは、間もなくであった。
赤い牝牛が屠場へ引かれて来た。
屠牛の三
赤い牝牛に続いて、黒い雑種の牡も、型の如くに瞬《またた》く間に倒された。広い屠場には三頭の牛の体が横たわった。ふと板塀の外に豚の鳴き騒ぐ声が起った。庭へ出て見ると、白い、肥った、脚の短い豚が死物狂いに成って、哀《かな》しく可笑《おか》しげな声を揚げながら、庭中逃げ廻っていた。子供まで集って来た。追うものもあれば、逃げるものもあった。肉屋の亭主が手早く細引を投げ掛けると、数人その上に馬乗りに乗って脚を締めた。豚はそのまま屠場へ引摺《ひきず》られて行った。
「牛は宜《よ》う御座んすが、豚は喧《やかま》しくって不可《いけ》ません。危いことなぞは有りませんが、騒ぐもんですから――」
こういう肉屋の亭主に随いて、復た私は屠場へ入って見た。豚は五人掛りで押えられながらも、鼻を動かしたり、哀しげに呻《うな》って鳴いたりした。牛の場合とは違って
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