笑いながら頭を抱《かか》えた。「ひどいひどい――ひどくやられた」
「えッ、やられた?」と亭主も笑った。
「その位はいけやしょう」
「どうして、もう沢山頂いて、実際入りません」とW君は溜息《ためいき》吐《つ》いた後で、「チ、それじゃ、やるか。どうも一ぱい食った――ええ、香の物でやれ」
 楽しい笑声の中に、私は夕飯を済ました。「お前も御馳走に成れ」という亭主の蔭で、細君も飯を始めた。戸棚の中に入れられた小猫は、物欲しそうに鳴いた。山の中のことで、亭主は牛肉を包んだ新聞紙をもめずらしそうに展《ひろ》げて、読んだ。W君はあまり詰込み過ぎたかして、毛布を冠ったまま暫時《しばらく》あおのけに倒れていた。
 炭焼、兎《うさぎ》狩の話なぞが夫婦の口からかわるがわる話された。やがて細君も膳を片付け、馬の飲料にとフスマを入れた大鍋を炉に掛けながら、ある夜この山の中で夫の留守に風が吹いて新築の家の倒れたこと、もしこの小屋の方へ倒れて来たらその時は馬を引出そうと用意したに、彼方《あちら》に倒れて、可恐《おそろ》しい思をしたことを話した。めったに外へ泊ったことの無い夫がその晩に限って本家で泊った、とも話した。
 新築の家というは小屋に近く建ててあった。私達はその家の方へ案内されて、そこで一晩泊めて貰った。漸く普請が出来たばかりだとか、戸のかわりに唐紙《からかみ》を押つけ、その透間から月の光も泄《も》れた。私達は毛布にくるまり、燈火《あかり》も消し、疲れて話もせずに眠った。

     山の上の朝飯

 翌朝の三時頃から、同じ家の内に泊っていた土方は最早起き出す様子だ。この人達の話声は、前の晩遅くまで聞えていた。雉子《きじ》の鳴声を聞いて、私達も朝早く床を離れた。
 私達は重《かさ》なり畳《かさ》なった山々を眼の下に望むような場処へ来ていた。谷底はまだ明けきらない。遠い八ヶ岳は灰色に包まれ、その上に紅い雲が棚引《たなび》いた。次第に山の端《は》も輝いて、紅い雲が淡黄に変る頃は、夜前真黒であった落葉松《からまつ》の林も見えて来た。
 亭主と連立って、私達は小屋の周囲《まわり》にある玉菜畠、葱畠、菊畠などの間を見て廻った。大根乾した下の箱の中から、家鴨《あひる》が二羽ばかり這出《はいだ》した。そして喜ばしそうに羽ばたきして、そこいらにこぼれたものを拾っては、首を縮めたり、黄色い口嘴《くちばし》を振
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