旅に來て名づけ親になるといふことも何かの縁かと私もうれしく思つた。紙なぞを取りよせて、そのことを書きつけ、この世によい種をまく人とも成るやうにとの意味から、種夫といふ名を選んで贈つた。にはかに空が曇つて遠くでは雷鳴の音さへ聞えたのに、岡田君も鷄二もなか/\歸りさうもない。そのうちに涼しい風が二階へ吹き滿ちて來た。庭の青桐へは夕立のくる音もした。
新らしい旅館は鳥取にいくらもある。温泉宿も多いと聞く。さういふ中で、私達が小錢屋のやうな古風な宿屋に泊つたのは、旅の心も落着いてよからう、といふ岡田君の勸めもあつたからで。旅人としての私は、僅か二日位の逗留の豫定で、山陰道での松江につぐの都會といはれるやうなところに、どう深く入つて見ようもない。こゝは三十五萬石からの舊い城下、縣廳の所在地、戸數七千、人口三萬五六千もある。賀露《がろ》の港を一里ばかりさきに控へ、三つの街道が市内の中を貫いてゐるやうなところだ。なるほどこゝは名高い市場もあり、物産の陳列館もあり、いろ/\な建物も見るべきものも多いやうであるが、鳥取の特色はさういふ表面に現はれたものよりも、むしろ隱れて見えないところにあるやうに思はれる。かういふ都會をよく見ることはむづかしい。
過ぐる幾十年、ゆつくりとしかも確かな足取りで歩いて來た町を、山陰方面に求めるなら、誰しもまづ鳥取をその一つに數へよう。土地の人達は急がうとしても、急ぎ得なかつたその原因を、主として千代川《せんだいがは》の氾濫に歸する。案内記によると、天文十三年このかた、三百八十年の間に四十八囘の大洪水に襲はれたといふ。いひかへれば、この地方は八年に一囘の大洪水に襲はれ、市民の生活はその都度破壞されて行くといふ慘澹たる状態にあつたとのことである。それほど自然と戰ひ續けて來たその地方の人達に、何かかう地味な根強さがあるやうに感じられるといふのも、不思議はないかも知れない。
その晩は、私は鷄二と二人で葉茶屋、古道具屋が目につき、柳行李を賣る店なぞも目につく、宿の附近から明るい町の方まで歩いた。三八の夜の賑はひとかで、夕涼みらしい土地の人達の風俗が、行くさきに見られた。旅に來て、知らない男や女の間に交るといふことも、樂しかつたのである。その翌朝は、また私は早く起き、宿の浴衣、宿の下駄でそこいらの町町を歩き※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]つた。深い庇、低い二階の窓、どうかすると、石や横木を載せた屋根の見られるのは、冬期の長さも思ひやられる。私は北は信州の飯山《いひやま》あたりまでしか行かないから、越後路のことは知らないが、こゝも雪は深さうだ。
宿に歸つて見ると、こゝの中學校の先生が一册の本を屆けてくれた。「郷土讀本」としてある標題のもので名刺も添へてある。その名刺の裏には、「わざとお目にはかゝらないが、私達の郷土をよく見て行つて下さい」といふ意味のことが書いてあつた。この註文は容易でない。さういふ私は訪ねて見たいと思ふ學校も訪ねず、古い尚徳館の跡も見ずじまひに歸つても、歌人香川景樹を生んだといふこの土地に來て見て、旅の疲れを休めて行くといふだけでも、澤山だと思つた。
私達の泊つた鳥取の宿は古いといへば古い家で、煙草盆は古風な手提げのついたのだし、大きな菓子鉢には朱色の扇形の箸入を添へてだすやうな宿ではあつたけれど、わざとらしいところは少しもなく、客扱ひも親切で、氣樂なところが好《よ》かつた。膳に向つて見ると、食器もすべて大切に保存されたやうな器ばかり。すゞしさうなガラスの皿に鮎の鹽燒をのせてだしたのも夏らしい。こゝの料理は年とつたおかみさんの庖丁と聞くが、大阪の宿を除いてはこゝで食はせるものは一番私の口に適《かな》つた。味もこまかい。旅人としての私は、自分等の前に置かれた宿屋の膳に向つて、吸物わんのふたを取つて見ただけでも、おほよそその地方を想像することが出來るやうな氣もする。その意味から、旅の窓よりこの山陰の都會を望んで見た時は、さういふ味のこまかいところが鳥取かとも私には思はれた。
熱い日の光りは町々に滿ちてゐた。岡田君と連立つて久松山の古城址を訪ねて見ると、苔蒸した石垣の間に根を張る樹木の感じも深く、堀に殘つた青い蓮もそこに夏のさかりを語り顏であつた。城址といふ城址も多い中で、この高い城山ほど市街を支配するやうな位置にあるものも少からう。往昔、豐臣秀吉の時代に、吉川經家のやうな勇將がこの城を死守したことは、今だに土地の人達の語り草となつてゐる。ちやうど私達の踏んでゆく日のあたつた道は、それらの武士達の血の流れた跡かとおそろしい。山腹にある櫓《やぐら》のあたりまで登つてゆくと、鳥取の町がそこから見渡される。千代川はこの地方の平原を灌漑する長い水の流れだ。
しばらく私達はこの眺望のある位置に時を送つた。長く留まることの出來る旅でもなかつたから、鳥取の町を見渡すだけにも私達は滿足して、やがて元來た道を引返さうとすると、過ぎゆく「時」の歩みをさも深く思ひ入つたやうな一人の老人にゆき逢つた。その老人は、石垣の間に青竹の杖をさしいれ、それに腰かけて、朝飯には遲く晝飯にはまだ早いやうな辨當を獨りでつかつてゐた。今だに封建時代に生きつゝあるかのやうな人を壘壁の一部に見つけるといふことも、かうした城塞の跡に來て見る旅の心を深くさせた。
「あのお爺さんはきのふもこの城址に來てゐて、いろ/\なことを僕に説明してくれたよ」
と鷄二は私にいつて見せた。
その日の午前には、私達は名高い砂丘の方へも自動車を驅つて、長さ四五里にわたるといふ、この海岸の砂地の入口にも行つて立つて見た。黄ばんだ熱い砂、短い草、さうしたさびしい眺めにも沙漠の中の緑土のやうに松林の見られるところもあつて、炎天に高く舞ひあがる一羽の鳶が私達の眼に入つた。砂丘の上からは海も望まれるかと、鷄二が一人で砂の道を踏んで行つた後姿も忘れがたい。浦富以來よい案内者であつた岡田君にも別れを告げて、その日のうちに私達は鳥取を辭した。
七 三朝《みさゝ》温泉
鳥取の停車場を離れてから、また私は鷄二と二人ぎりの汽車の旅となつた。私達は今、山陰道の海岸に沿うて、傳説の多い地を旅しつゝある。その考へはひとりでに私の胸に浮んで來た。湖山《こやま》の池も近いと聞くと、私は鳥取の方で聞いて來た湖山の長者の傳説を自分の胸にくり返して見て、おとぎ話の世界にでも心を誘はれるやうな思ひをした。その傳説によると、長者は廣い土地を所有し、多くの人を使つて、一日のうちに自分の所有する田地の植付を濟まさうとしたほどの人である。長者は又、手に持つ扇をひろげ、西の空に沈みかけた太陽をさし招いて、その日のうちにすつかり苗を植付けてしまつたといふほどの人である。しかしこの自然を無視したやうな行ひは、それ相應なむくいを受けない譯にいかなかつた。長者の田は一夜のうちに青々とした湖水に變つてゐたといふのである。この傳説の世界が、眼に見る湖山の池であるのだから面白い。島二つほどある靜かな湖水だ。私達がそれを望んで通り過ぎようとしたころは、にはかな夕立が湖水の上へも來、汽車の窓の外へもきた。
もつと古い傳説を、傳説といふよりも古い神話の殘つた地方を、松林と砂山の多い因幡《いなば》の海岸に見つけることも出來た。旅の心は白兎の停車場に至つて驚く。私達は出雲《いづも》地方までゆかないうちに、ずつと大昔からの言傳へが、こんなところにも殘つてゐるのかと、先づそのことに驚かさる。大國主の神が多勢の兄弟と共に旅して來た稻羽《いなば》の海岸とはこゝだといふことに氣がつく。智惠のある白い兎が※[#「二点しんにょう+於」、310−下−22]岐《おき》の島から鰐の背を渡つて來たのもこゝだといふことに氣がつく。あれは古い神話のうちでももつとも樂しいものの一つだ。私達の側には鳥取から一緒に乘つて來た鳥取新報の記者もゐて、鰐とは青い鮫《さめ》のことであり、それが古代の海賊のことであり、白兎《しろうさぎ》とは善良な民族のことであるといふ一説なぞを話し聞かせてくれた。記者は故有島武郎君をも知つてゐて、同君の亡くなる前の年かに、鳥取地方へ講演の旅のついでに疲れを忘れて行つたといふ濱村温泉をも私に指して見せた。あの「星座」の著者を記念するやうな濱村温泉は海に近いところにあつた。私達はその海邊に添うた砂山と松林とをも車の窓から見て通り過ぎた。
因幡《いなば》の國境を離れて伯耆《はうき》に入つたころは、また夕立がやつて來た。暗い空、黒い日本海。車窓のガラスに映る水平線のかなたには僅に空の晴れたところも望まれたが、やがて海へも雨が來た。私達は上井《あげゐ》の停車場で一旦汽車から降りて、三朝《みささ》行の自動車に乘りかへた。濱村温泉といひ、東郷温泉といひ、これから私達が訪ねてゆかうとしてゐた三朝温泉といひ、この附近には至るところに好い温泉地のあることも思はれる。
雨を衝いて二里ばかりの道を乘つていつた。次第に山も深い。川がある。橋がある。三朝川は私達の沿うて上つて行つた溪流だが、いつの間にか河上の方から流れてくる赤く濁つた水を見た。
三朝川は前を流れてゐた。私達は三朝温泉の岩崎といふ旅館に一夜を送り、七月十三日の朝を迎へて、宿の二階の廊下のところへ籐椅子なぞを持ち出しながら、しばらく對岸の眺望を樂しんで行かうとした。雨もあがつて、山氣は一層旅の身にしみた。河の中洲を越すほど溢れてゐた水もいつの間にか元の瀬にかへつた。こゝで聽く溪流の音はいかにも山間の温泉地らしい思ひをさせる。河鹿の鳴聲もすゞしい。ゆふべは私は宿の女中の持つて來て見せた書畫帖の中に、田山花袋君の書いたものを見つけてうれしく思つた。大正十二年この地に遊ぶとある。さうか、あの友達もこの宿に泊つて旅の時を送つて行つたのかと思つた。
大正十二年といへば私達の忘れられない年だ。おそらくあの友達がこの地に遊んだのは、東京へ震災の來る前の夏のことであつたらう。あれから最早かなりの月日がたつ。私達の眼にある三朝川、白く黄ばんだ土手の上の趣のある道、兩岸に相對する温泉宿、これらの眺めはあの友達の來て見たころと同じやうであらうか。そこの河原へは鶺鴒が來た、鮎を釣る男も來た、こゝの橋の下へは村の娘達が無心なまるはだかで水を泳ぎに來た。と私達は眼にあるものを指していふことも出來たけれど、あの友達の來て見たころはこれよりもつと野趣のある土地であつたらうか。温泉地としての三朝の發展は十數年このかたのことと聞く。三徳山行の參詣者達のために昔風の温泉宿があつた以前のことに比べると、今の三朝は別天地の觀があるともいふ。こゝは諸方から入り込む浴客を相手としての温泉宿と商家と、それから周圍に散在する多くの農家とから成り立つ。温泉地としての三朝の經營は、温泉宿や商家の負擔であるばかりでなく、農家の負擔でもある。そこから村の惱みも起ると聞く。村の人達の間にはまた土地の強い執着があつて、たとひ他から來て別莊でも建てようとするものが、坪百圓で地所を讓り受けたいといひ出しても、頑としてさういふ相談に應じないといふ話も聞く。三朝は將來どうなつてゆくのか。温泉地としての城崎を熱海あたりに比べていいものなら、こゝは箱根あたりに近いところにでもなつて行きつゝあるのか。いづれにしても、三朝川の溪流の音だけはこのまゝ變らずにあらせたい。三朝を發《た》つ前、倉吉《くらよし》から見えた神田君を案内に頼んで、ちやうど養蠶時にあたる附近の農村をも訪ねて見た。私の長男が耕してゐる郷里の山地に思ひ比べると、いろ/\相違を見つけることが多い。旅の私達はここに働いてゐる人達のことを考へて見るといふだけにも滿足して、あちこちの柿の枝に藁造りの飾りなどの吊るしてある農家の間を歩き※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]つて見た。
八 松江まで
大阪を出る時の旅の豫定では、三朝から米子《よなご》に向ひ境の港に出、あれから宍道湖《しんぢこ》を船で渡つて松江に着くつもりであつた。私はこの豫定をいくらか變更して、一
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