山陰土産
島崎藤村

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)城崎《きのさき》へ

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)詩人|國府犀東《こくぶさいとう》氏

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]つた

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)いろ/\な
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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    一 大阪より城崎《きのさき》へ

 朝曇りのした空もまだすゞしいうちに、大阪の宿を發《た》つたのは、七月の八日であつた。夏帽子一つ、洋傘一本、東京を出る前の日に「出來《でき》」で間に合はせて來た編あげの靴も草鞋をはいた思ひで、身輕な旅となつた。
 こんなに無雜作に山陰行の旅に上ることの出來たのはうれしい。もつとも、今度は私一人の旅でもない。東京から次男の鷄二をも伴つて來た。手荷物も少なく、とは願ふものの、出來ることなら山陰道の果《はて》までも行つて見たいと思ひ立つてゐたので、着更へのワイシヤツ、ヅボン下、寢衣《ねまき》など無くてかなはぬ物の外に、二三の案内記をも携へてゆくことにした。私達は夏服のチヨツキも脱いで、手提かばんの中に納めてしまつた。鷄二は美術書生らしい繪具箱を汽車のなかまで持ち込んで、いゝ折と氣にいつた景色とでもあつたら、一二枚の習作を試みて來たいといふ下心であつた。畫布なぞは旅の煩ひになるぞ、さうは思つても、それまで捨ててゆけとはさすがに私もいへなかつた。かうして私達二人は連れ立つて出かけた。汽車で新淀川を渡るころには最早なんとなく旅の氣分が浮んで來た。
 關西地方を知ることの少い私に取つては、ひろ/″\とした淀川の流域を見渡すだけでもめづらしい。私も年若な時分には、伊賀、近江の一部から大和路へかけてあの邊を旅し※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]つたことがあつて、殊に琵琶湖のほとりの大津、膳所《ぜぜ》、瀬田、石山あたりは當時の青年時代のなつかしい記憶のあるところであり、好きな自然としては今でもあの江州《がうしう》の地方をその一つに思ひ出すくらゐであるが、それから三十年あまりこのかた、私の旅といへば、兎角足の向き易い關東地方に限られてゐた。私は西は土佐あたりまでしか知らない。山陰山陽方面には全く足を踏みいれたことがない。山陰道とはどんなところか。さう思ふ私は、多くの興味をかけて東京を發《た》つて來たと同時に、一方には旅の不自由を懸念しないでもなかつた。地名のむづかしさには、まづ苦しむ。しかし、鷄二とさし向ひに汽車の窓際に腰かけて、一緒に乘つてゆく男女の旅客の風俗を眺めたり、大阪の宿からもらつて來た好ましい扇子などを取り出して見たりするころには、私もこの旅に上つてくるまでのいろ/\な心づかひを忘れてゐた。
 大阪近郊の平坦な地勢は、甲《かぶと》、武庫《むこ》、六甲《ろくかふ》の山々を望むあたりまで延びて行つてゐる。耕地はよく耕されてゐて、ぶだう畠、甘藷の畠なぞを除いては、そこいらは一面の青田だ。まだ梅雨期のことで、眼にいるものは皆涼しく、そして憂鬱であつた。伊丹から池田までゆくと、花を造つた多くの畠を見る。街路樹のベツドかと見えて、篠懸《すゞかけ》の苗木が植ゑてあり、その間には紫陽花《あぢさい》なぞがさき亂れてゐた。さすがにその邊までは大阪のやうな大きな都會を中心に控へた村々の續きらしくも思はれた。

 大阪から汽車で、一時間半ばかり乘つてゆくうちに、はや私達はかなりの山間に分け入る思ひをした。同車した乘客のなかには、石のあらはれた溪流を窓の外に指さして見せて、それが武庫川であると私達に教へてくれる人もある。これからトンネル一つ過ぎると丹波の國であるとか、こゝはまだ攝津の中であるとか、そんなことを語り合ふのも汽車の旅らしかつた。
 正午過ぐるころに、藍本《あゐもと》といふひなびた停車場を通つて丹波の國に入つた。まだ私達は半分大阪の宿にゐる氣がしてあの關西風の格子戸や暗くはあるが清潔な座敷からいくらも離れて來てゐないやうな心地もしてゐたのに、眼に見るものは全くそれらとかけはなれた緑の世界であつた。ところ/″\にさいた姫百合の花も周圍の單調を破つてゐた。古市《ふるいち》の驛を通り過ぎたところには、どつちを向いて見ても滴るやうな濃い緑ばかり。宛《あた》かも青い木の葉を食ふ蟲の血が緑色であるやうに、私達の總身の血潮までその濃い緑に變るかと疑はれるばかりだ。思ひ比べると、大阪の宿で見て來た庭の草木の色はなかつた。半生を東京の町中に多く暮して來た私などが、あの深い煤煙と塵埃との中に息づいてゐるやうな幹も草も黒ずみくすぶつた都會の樹木を笑へた義理でもない。漸くのことで、私も日頃の自然に遠い生活から離れて來て、思ふさま七月の生氣を呼吸することの出來るやうな旅に身を置き得た心地もした。
 何を見、何を拾はうとして、私は鷄二と一緒にこの山陰行の旅に上つて來たのであるか。はじめて見る山陰道、關東を見た眼で見比べたらばと思ふ關西の地方、その未知の國々がこれからゆく先に私達を待つてゐた。しかし、そんなに深く入つて見るつもりで、私はこの旅に上つて來たものではない。むしろ多くの旅人と同じやうに、淺く浮びあがることを樂しみにして、東京の家を出て來たものである。その意味からいつても、重なり重なる山岳の輪廓を車窓の外に望みながら、篠山《さゝやま》まで來た、丹波大山まで來た、とゆく先の停車場で驛々の名を讀み、更に次の驛まで何マイルと記してあるのを知り、時に修學旅行の途中かと見えるやうな日に燒けた女學生の群が、車窓に近くゆき過ぐるのを眺めることすら、私はそれを樂しみにした。
 更に山地深く進んだ。
「父さん柏原《かいばら》といふところへ來たよ」
「柏原と書いて、(かいばら)か。讀めないなあ。」
 私も鷄二も首をひねつた。土地不案内な私達は、ゆく先で讀みにくい地名に逢つた。石生と書いて、(いさふ)と讀ましてあるのも、むづかしい。その邊は生活に骨の折れさうな山村でもある。私達はやせた桑の畠などを見て通り過ぎた。黒井といふ驛あたりから、福知山《ふくちやま》迄は殆んど單調な山の上の旅で、長く續いた道を歩いて見たら、かなり退屈するだらうと思はれるところだ。もう一里來た、もう二里來たといつた時分の昔の人の徒歩や馬上の旅も思ひやられる。

 京都から福知山を經て城崎《きのさき》の間を往來した昔は、男の脚で四日、女の脚ならば五日路といつたものであると聞く、大阪からするものは更にそれ以上に日數を費したであらう。私達の乘つてゆく汽車が遠く山陰道方面の海岸へ向けてかなりの高地を越えつゝあることは、山から切り出す材木や炭の俵などが鄙びた停車場の構内に積み重ねてあるのを見ただけでも、それを知ることが出來る。おそらくあの上方邊の人達が「しんど、しんど」といひながら山また山を越したらう昔を思ふと、一息に暗い穴の中を通り過ぎてゆく今日の汽車旅は比較にもなるまいが、それでも私達はかなり暑苦しい思ひで幾つかのトンネルを迎へたり送つたりした。車中の人達は、と見ると窓のガラス戸を閉めたり開けたりするのに忙がしいものがある。襲ひくる煙のうづ卷く中で、卷煙草の火を光らせるものがある。ハンケチに顏をおほうて横になるものがある。石炭のすゝにまみれて、うつかり自分等の髮にもさはられないくらゐであつた。幾たびとなく私は黒ずみ汗ばんだ手を洗ひに行つて、また自分の席へ戻つて來た。鷄二などは次第にこの汽車旅にうんで、たゞうと/\と眠りつゞけて行つた。鐵道の從業員が京都方面へ乘換の人は用意せよと告げにくるころになつて、漸く私の相棒も眼を覺ました。
 福知山は北丹鐵道乘換の地とあつて、大阪からも鐵道線路の落ち合ふ山の上の港のやうなところである。そこには兵營もある。ちよつと松本あたりを思ひださせる。午後の二時近い頃に私達はその驛に掲げてある福知山趾、大江山、鬼の岩窟などとした名所案内の文字を讀んだ。果物の好きな鷄二は、呼び聲も高く賣りにくる夏蜜柑を買ひ求めなどした。僅かの停車時間もあつたから私は汽車から降りて、長い歩廊《プラツトホーム》をあちこちと歩いて見、生絲と織物の産地と聞く福知山の市街を停車場から一目見るだけに滿足してまた動いてゆく車中の人となつた。
 下夜久野《しもやくの》の驛まで行つた。たま/\汽車の窓から舞ひ込んでくる氣まぐれな蜂などがあつて、そんな些細な事も車中の人達の無聊をなぐさめた。その邊から上夜久野《かみやくの》へかけては、山家らしい桑畑の多いところだ。ところ/″\に成長する芭蕉や棕梠をも見る。信州あたりの耕地を見慣れた眼には、田植に使はれてゐる牛を見かけるのもめづらしい。鷄二は私にいつた。「今頃、田植をやつてる。七月に入つてから田植なんてことはないよ。よつぽど水がなかつたんだね。」
 そこいらに出て働いてゐる男や女がゆく先で私達の眼につくのも、鷄二の兄の楠雄が同じ農業に從事してゐるからで。私達がその邊の田舍を窓の外に眺めながら乘つてゆく心は、やがて自分等の郷里の方の神坂《みさか》から落合へ通ふ山路なぞを遠く思ひだす心であつた。

 山陰らしい特色のある眺めが次第に私達の前に展開するやうになつた。何となく地味も變つて來て、ところ/″\に土の色の赤くあらはれたのが眼につく。滴るばかりの緑に包まれた崖も、野菜のつくつてある畑も赤い。この緑と赤の調和も好い。關東地方の農家を見慣れた眼には、特色のある草屋根の形と線とを見つけるのもめづらしい。
 上夜久野の驛を過ぎて、但馬《たじま》の國に入つた。攝津《せつつ》から丹波《たんば》、丹波から丹後といふ風に、私達は三つの國のうちを通り過ぎて、但馬の和田山についた。そこは播但線《ばんたんせん》の交叉點にもあたる。案内記によると、和田山はもと播磨《はりま》ざかひの生野《いくの》から出石《いづし》、豐岡《とよをか》方面へ出る街道中の一小驛にとゞまつてゐたが、汽車が開通してからだん/\開けて、今では立派な市街になりつゝあるといふ。汽車はそのあたりから圓山川の流れに添うて、傾斜の多い地勢を次第に下つて行つた。養父といふ驛を過ぎて、變つた地名の多いにも驚く。
「こゝにもむづかしい名がある。八つの鹿と書いて、(やをか)ださうだ。――讀めないね。」
 私達はこんなことを語り合ひながら乘つて行つた。
 やがて遠く近く望む山々の上には、灰色の雲が垂れさがつて來た。滿山の翠《みどり》は息をはずませて、今に降つてくるか今に降つてくるか、と待ち受けるかのやうでもあつた。低い雲はいよいよ低く、いつの間にか容《すがた》を隱す山々もある。かなたには驟雨も來てゐたらしい。私達はその雨を含んだ蒸暑い空氣の中を乘つて、一面に桑畑を望むことの出來るやうな平坦な地勢へと降りて行つた。日本海の方面をさして、北へ/\と出て行く旅心地も好い。私達の見て行つた圓山川も、出石川を併せてからは、名も豐岡川と改まつて、次第に河幅も廣い。柳行李の産地として名高いと聞く豐岡の町がその河のほとりにあつた。
 豐岡まで乘つて行つて、新築の家屋にまじつた、バラツク風の建物、トタンぶきの屋根なぞ多く見た時は、私達もハツと思つた。過ぐる年の新聞紙上の記事で讀み、網板《あみばん》の插畫でも見た城崎地方の震災直後の慘状が、その時私の胸に浮んだ。
「御覽、たしかにこの邊は震災の跡だよ。」と私は連れにいつて見せて、當時の災害が豐岡の町あたりまでもおよんだことを知つた。
 玄武洞《げんぶどう》の驛まで行くと、城崎も近かつた。越えて來た山々も、遠くうしろになつて、豐岡川の水はゆるく眼の前を流れてゐた。湖水を望むやうな岸のほとりには、青々とした水草の茂みが多く、河には小舟をさへ見るやうになつた。間もなく私達は震災後の建物らしい停車場に着いて、眼に觸れるもの皆新規まき直しであるやうな温泉地の町の中に自分等を見つけ
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