た。そこが城崎《きのさき》であつた。
何よりもまづ私達の願ひは好い宿について、大阪から城崎まで七時間も、汽車に搖《ゆ》られつゞけて行つた自分等の靴のひもを解くことであつた。一日の旅で、私達のはだ身につけるものはひどい汗になつた。夏帽子の裏までぬれた。私も鷄二も城崎の宿の二階に上つて、女中がすゝめてくれるさつぱりとした浴衣に着更へた時は、活《い》き返つたやうな心地を味はつた。
新しい木の香《か》のする宿の二階からは町の空が見える。そこはもう山陰の空だ。新築中の家々の望まれる方に行つて見た。そこにもこゝにも高く足場がかゝつて、木を削るかんなの音が聞えてくる。あちこちの二階のてすりに浴衣など干してあるのも温泉地らしい。工事小屋から立ち登る煙もその間に見えて、さかんな復興の氣象が周圍に滿ちあふれてゐた。
この温泉宿へ着く前に、私達は町の中央を流れる河の岸を歩いて、まだ燒けない前の、一の湯とか御所の湯とかいつた時分からの意匠を受けついだといふ建物や、新規に出來たらしい橋の意匠などを見て來た。多くの浴客がいり込む場所と見えて、軒をつらねた温泉宿の數も多い。震災前まではその數が五六十軒であつたのに、新築中のものがすつかり出來上つたら百軒にも上るであらうと聞く。停車場まで私達を出迎へに來てくれた宿の若主人からその話を聞いて、よくそれでもこんなに町の復興がはかどつたものだと私がいつて見たら、
「みんな一生懸命になりましたからね。この節はすこしだれて來ましたが、一頃の町の人達の意氣込といふものは、それはすさまじいものでしたよ。これまでに家のそろつたのも、そのおかげなんですね。」
と若主人は私にいつて見せた。
一時は全滅と傳へられたこの町が、震災當時の火煙につゝまれた光景も思ひやられる。河へはいつたものは助かつて、山へ駈け登つたものの多くは燒け死んだ。傾斜を走る火は人よりも速かつたといふ。宿の二階から望まれる裏山はそれらの人達が生命がけで逃れようとした跡かと見えておそろしい。そこには燒け殘つた樹木がまだそのまゝにあつて、芽も吹かずに、多くは立ち枯れとなつてゐるのも物すごく思はれた。
それにしても、私達が汽車の窓から見あきるほど見て來た丹波、丹後あたりの山道の長ければ長かつただけ、震災後一年ぐらゐしかならないこの復興最中の城崎に來て、激しい暑さと疲勞とを忘れさせるやうな樂しい温泉宿にたどりついたといふ感じは深かつた。
こゝは千年あまりもの歴史をもつた古い温泉地であるとも聞くが、急激な土地の發展は山陽線の開通以後からであるらしい。
二 城崎附近
山陰道にある城崎は、關東方面でいつて見るなら、熱海あたりを思ひださせる。古い温泉地であることも似てゐる。種々雜多なものを取りいれてあるところも似てゐる。古雅なものと卑俗なものとが同時にあるやうなところも似てゐる。東京横濱あたりの人達があの熱海へでも出かけるやうに、こゝにはまた京都、大阪、神戸あたりからの湯治の客が絶えない。
ずつと昔はこの城崎も、舟の便宜による交通運送の業を主にして、それによつて土地の人達が生活を營んで來たものであつたといふ。なんとなく河港の趣きのある土地柄が、この遠い昔を語つてゐた。温泉地としての城崎が知られるやうになつたのは、享保以後あたりからで、更に明治年代となつてからは日露戰爭以後に急激な發展を見たものであるとか。私達の泊つた宿は、油《ゆ》とうやといつて、土地でも舊い家柄と聞く。偶然にも一夜の客となつて見て、私達はそこの老主人から京都方面との交通の多かつた時代のことを聞かせられた。頼山道、篠崎小竹《しのざきせうちく》、それから江間細香《えまさいかう》のやうな京都に縁故の深かつた昔の人達の名をかうした温泉地に來て聞きつけることも、何とはなしに床《ゆか》しい。油とうやの先代、先々代と、頼家との間には、文書の往復もしば/\あつたとのことである。そればかりではない。宿の老主人の口からは高安月郊君の名も出て來て、思ひがけないところであの友人のうはさもした。ある人にいはせると、城崎には温泉地としての特色が乏しいともいふ。縁組さへもこれまで京都方面に多く結ばれたといふ。かうした土地にあつては、一切の模倣もまた止むを得なかつたかも知れない。山陰とはいつても、舊い時代からの京都の影響は、それほどこの城崎あたりまで深く及んで來てゐる。
しかし、あの熱海の雜沓が周圍の海や山によつて救はれてゐるやうに、こゝにはまた豐岡川があり、瀬戸があり、日和山のやうな場所もあつて、附近に多い景勝の地がやゝもすれば俗地に陷り易い温泉地から城崎を救ひだしてゐる。
東京を出る時に私の懸念したことは、知らない土地での旅の不自由さであつた。來て見ると、その心配はなくなつた。のみならず、土地のいゝ案内者をも得た。私達は玄武洞や温泉寺を省いて瀬戸、日和《ひより》山の方面を探ることにした。城崎へ着いた翌朝は空もよく晴れた。秦君、稻垣君、それから油とうやの若主人などが、この私達を案内してくれることになつた。町はづれまで行つて、豐岡川の岸へ出た。發動機を具へつけた一さうの船が、そこに五人のものを待つてゐた。
城崎附近を流れる豐岡川は、圓山川ともいふ。案内記によると、この川の上流は圓山川、下流は豐岡川としてあつて、地圖にもそのやうに出てゐるが、土地の人達はやはり下流までも、圓山川と呼んでゐるのは、その名に親しみを覺えるからであらう。河口から入つてくる海の潮は、その邊から豐岡あたりまでもさかのぼるといふ。私達が岸に添うて出て行つた時は、眞水と潮水のまじる湖水の上にでも舟を浮べた心地もした。朝から暑い日で、私達は舟の日よけのかげに寄り添ひながら乘つて行つた。七月の日の光は水の上にも、蘆《あし》の茂る河の中洲にも滿ち溢れてゐて、涼しいものと暑いものとが私達の目にまじり合つた。舟から近く見て行く青い蘆の感じも深い。私は鷄二の方を見て言つた。
「これはいゝところだ。父さんはかういふところが好きさ。」
「僕も好きだ。」
と鷄二も言つてゐた。これが發動機でなしに、ゆつくりこいで行く艪であつたら。
「ほんたうの河の味は、どうしたつて艪でなければ出ませんね。」
と私達に言つて見せる油とうやの若主人の言葉もうなづかれた。水明樓の跡といふは、城崎から三四町のところにあつた。徳川時代の儒者、柴野栗山《しばのりつざん》が河に臨んだ小亭の位置を好んで、その邊の自然を樂しんだ跡と聞く。今は鐵道工事のために取り拂はれて、漢詩を刻した二つの古い石碑まで半ば土に埋められたまゝになつてゐるのも惜しい。私達はその岸に殘つた記念の老松を見て通り過ぎた。中洲について一囘りすると、さながら私達は石濤《せきたう》和尚が山水畫册中の人でもある。私はまた葦船に乘せて流し捨てられたといふ水蛭子《みづひるこ》の神話を自分の胸に浮べて、あの最初の創造といひ傳られたことを、かうした水草のかげに想像したいやうにも思つた。
海のものも河のものも釣れるといふやうな河口の光景は、徐徐と私達の眼の前にひらけた。波をきざんで進んで行く發動機の音もさほど苦にならない。私達は船の上にゐながら、そこに青い崖がある、こゝに古い神社がある、と數へながら乘つて行くことが出來た。かなたの河口へ突出した陸つゞきには、古墳でも隱れてありさうなこんもりとした森が見えて、さうした名もないやうな土地の一隅までが、古い歴史をもつた山陰らしい感じを與へる。
「もう一度も、かういふところへ來て見る折があるだらうか。鷄ちやんは若いから、あるだらうが、父さんにはどうかナ。まあ、よく見てゆくんだね。」
と私は鷄二に言つて見せなどして、同行の人達と一緒に、津居山灣《つゐやまわん》の望まれる河口へと出た。瀬戸も近かつた。
漁村の岸のところに着いて、一行五人のものは船から上つた。橋がある。その橋一つを境にして橋から先は津居山村、橋の手前が瀬戸にあたる。瀬戸は山をひかへ、水にのぞんで、漁村として好ましい位置にあつた。津居山灣の方へとつゞいた水は、その邊で靜かな入江のやうな趣を見せてゐた。
久しぶりで見られる海が待つとでも思はなかつたら、私達もこんなに勇んで、暑い日あたりの道は踏めなかつたかも知れない。瀬戸から日和山《ひよりやま》へかけては、この雨のすくない乾いた梅雨期でなしに、他の季節を選んで、もつとゆつくり歩いて見たらばと思はれるやうなところだ。日は次第に高くなつた。鏡のやうに澄んだ水は私達が踏んでゆく岸の右手に見られても、照りつける烈しい反射にさまたげられて、ゆつくり立ちどまる氣にもなれなかつた。逃れるやうにして、私達は日和山のふもとに着いた。そこから樹かげの多い坂路を登つたが、路傍に息づく草の香も實に暑かつた。日和山はこの附近でももつとも眺望の好い位置にある。かうした漁村によく見つけるやうな古い墓地が山の上にあつて、そこから瀬戸神社への道もつゞいて行つてゐる。墓地から程遠からぬところには、古い言傳への殘つた一株の松の樹もあつた。後醍醐天皇の第二の皇子とやらが遠く隱岐の方を望み見て、激しい運命を悲しんだのも、その松の樹かげからであつたとか。同行の秦君はいろ/\なことを私に話してくれた。毎朝その邊まで潮を見に來てかならず瀬戸神社へも參詣してゆくといふ村の漁師達の話も出た。漁師達の神はまた、「お前達はさうしてわたしを見にくるのか。それとも海を見にくるのか。」と彼等の耳にさゝやくとか。素朴な生活のさまも思ひやられる。私はこの言葉を直接に漁師達の口から聞いて見たらばとも思つた。瀬戸神社の横手は休むにいゝ二階建の茶屋もある。あふひ、紫陽花《あじさゐ》がそのあたりにさき亂れてゐて、茶屋へゆくまでの小路も樂しかつた。
海も凪《なぎ》だ。山陰道へ來て始めて私達が日本海を望んで見たのも、その日和山からである。茶屋の樓上からは近くに後《うしろ》が島、かなたに鏡が崎も望まれて、際涯《はてし》もなく續いてゐるやうな大海と、青く光る潮の筋とを遠く見渡すことも出來た。そこまでたどり着くと、海風が吹き入つてすゞしい。うつかりすると私達の夏帽子までが風にとばされるくらゐだ。私達はそこで味はふ茶に途中の暑苦しさも忘れて、およそ二時間ばかりも海のよく見えるところに時を送つた。
三 大乘寺を訪ふ
香住《かすみ》の大乘寺は俗に應擧寺といつて、山陰方面では圓山應擧の畫で知られてゐる。
私が鷄二を伴つてこの寺を訪ねようとしたのは、瀬戸の日和山に登つて海を望んだ日の午後であつた。晝飯後に、私達は城崎を辭し、土地の人達に別れを告げようとした。油《ゆ》とうやの若主人は、香住まで案内しようといつてくれるので、この暑さに氣の毒とは思つたが、その言葉に從つた。そこで、三人して香住に向つた。城崎から香住までは里數にしても僅かしかない。汽車で四十分ばかりも海岸を乘つてゆけば、それで足りた。
香住の停車場に着いて見ると、村の自動車が二臺までもそこに客を待つてゐた。訪ねる人もかなりあると見えて、乘合の客の多くは大乘寺行の人達だ。思ひがけなく私達はその村で伊藤君といふ好い案内者を得たが、ちやうど私達が香住に着いたのは午後の二時頃の暑いさかりで、あいさつするにも、自動車を頼まうにも、自分等の手から扇子をはなせないくらゐであつた。そこにも、こゝにも、立ちながら使ふ扇子の白く動くのが見えた。
自動車は容易に出なかつた。そこには、一人でも多く客を拾つて行かうとするやうな運轉手があり、無理にもまた乘せろといつて割り込まうとする客もあつた。のん氣で、ゆつたりとしたところは、どこの田舍の停車場前もさう變りがない。何となく私達まで氣ものび/\として來た。急ぐ旅でもない、さう思ふやうになつた。その日のうちに岩井あたりまで行つて泊ることが出來さへすればそれでよかつた。私達は乘合馬車にでも乘るやうに、その自動車に乘つた。油とうやの若主人が乘り、伊藤君が乘り、伊藤君の連れが乘り、鷄二が乘り、そこへ私まで割り込んだ時は、狹い車の中は身動きも出來ないほどの
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