暑苦しさだ。こんなにこぼれるばかり客を詰め込んだ車の上も、動き出して行つた時はさすがに風があつた。竹林などのある田舍道を車の上から見て行く感じも好かつた。それほど奧まつたところに寺のあるといふことも、これから見に行く應擧の畫にふさはしく思はれた。大乘寺は香住のうちの森といふ村にある。果樹や野菜の畠を前にして、山門のところに小高い石垣をめぐらしたやうな、見つきからして誰にでも親しめさうな寺だ。山門を入つたところには、幾百年の風雨を凌いできた椎の大樹などが根を張つてゐて、寺を訪ねるものはまづその樹蔭に立ち寄りたくなる。伊藤君の案内で、やがて私達は寺のなかの應接間のやうな部屋に通された。長火鉢を置いた廣い部屋がまだ先にあつて、そこから料理の間の方へ續いてゐる。この古い、しかも堅牢な感じのする寺院を再興したのは、應擧の恩人であり、保護者であり、また友達でもあつたやうな密英上人《みつえいしやうにん》で、現に見る建物の内部も多くはその意匠になつたものであるといふ。あいにく今の住職の留守の時であつた。部屋の片隅に机を置いて繪葉書などを賣る若僧が私達に茶をすゝめてくれた。私達は應擧の畫を見て囘るよりも、庭から好い風の通つてくるところで涼む方が先だつた。

 大乘寺には、私達より先に自動車で着いた一組の老夫婦があつた。二人とももう好い年配で、どこか遠方からでもこの山陰見物に出かけて來たらしい。しばらく私達と同じ廣間に居て、若僧がすゝめる茶を飮みながら休んでゐた。こんなに年をとつてから夫婦してこの世を歩いてゐる人達もある。同棲後十年、今また同行二人の巡禮者の姿であるともいひたい。思ひ出の深い旅かと見えて、互ひにいたはるさまも眼をとめて見る氣になつた。案内するものもその人達の側についてゐて、寺の繪葉書などを取りよせて見てゐる樣子だ。旅で旅人に逢ふ。私としてはその心が深い。私は旅人が旅人を眺めるやうにその老夫婦を眺めて、話好きな伊藤君達を相手に自分等の汗の沈まるまで待つた。やがて老夫婦は私達にちよつと會釋した後で、一歩《ひとあし》先《さき》に寺のなかを見て囘つてゐた。
 この大乘寺に來て、私も心ひかれたことがいろ/\ある。この寺の内部が、應擧の畫で飾られるまでには、かなりの長い時がかゝつたらうといふことは、その一つである。昔の大名や金持の保護からでなしに、密英上人のやうな藝術を愛した坊さんがあつて、その人の心からこの寺に保存されてあるやうな應擧の作品の生れて來たといふことは、その一つである。こゝには應擧の作品ばかりでなく、彼の友達の畫もあり、彼の弟子達の繪もあつて、圓山派一門の美術家の親しみがいかにもよく感じられるといふことも、その一つである。應擧はその若く貧しかつた時代に密英上人から寄せられた厚意と友情とを忘れないで、呉春、蘆雪、源埼、その他の弟子達を伴ひ、京都から但馬までの山坂を越えて、二度までもこの寺の壁、襖、屏風などを描きに來たといふ。おそらく、この大乘寺の位置が京都か奈良の附近にでもあるとしたら、もつと廣くも世に知られてゐたらう。さういふ私なども半生の旅の多くは關東方面に限られてゐて、この年になるまで大乘寺の名さへも聞かなかつた。かういふ寺を山陰道の田舍に置いて考へることも、しかし樂しい。應擧の作品についても、私は今日まで僅かしか知る機會を持たなかつたが、來て見て動かされた。
 この寺の内部は、佛殿を中心にした十一の部屋と、それに附屬した二つの部屋と、別に二階にある二つの部屋とから成り立つ。そのうちの十三の部屋が圓山派一門の畫で滿たされてゐる。寺としての設計も、簡素ではあるが、かなり大きい。私達は佛殿を前にして孔雀の間に行つて、應擧の畫の前に立つて見た。そこは二十五疊からの大廣間で、十六枚の襖が一つの大きな構圖のもとにまとめてある。黒と金との強い調和だ。寺の一隅にあたる芭蕉の間へも行つて立つて見た。十二疊半の部屋で、八枚の襖に郭子儀《くわくしぎ》のやうな支那風の人物と、芭蕉のもとに嬉戲する子供等のさまとが描いてある。そこには緑と金との柔かな調和が見られるばかりでなく、何となくひろ/″\とした藝術家の心までが感じられる。その隣にはまた二十五疊半といふ一番廣い部屋があつて、應擧の山水の圖の前へも行つて立つて見た。その部屋の片隅によせて、ふくろだなが造りつけてあつて、枇杷、葡萄などの靜物を描いた四枚の小襖も私達の心をひいた。昔の藝術家はいかによく自然を見たことか、あの鯉の圖などで應擧の寫生といふものを單純に想像してゐた私は、その日頃の考へ方を改めなければならないやうに思つた。
 好いものを見た。その樂しい旅の心持で大乘寺を辭した頃は、約束しておいた自動車が容易にやつて來なかつた。私達は寺の前にあつた煙草屋の縁臺をかりて、自分等のくゞつて來た山門、降りて來た石段、それから石垣の前の果樹や野菜の畑の見えるところで、やゝしばらく自動車のくるのを待つた。そこいらには村の子供達が集まつて來て、私達の周圍で遊び戲れてゐた。
「御覽。あの應擧の描いた子供は、何となくこの邊の子供に似てるぢやないか。」
 といつて私は鷄二を笑はせた。濃い眉、廣い眉間《みけん》、やゝあがり氣味の眼尻、それから豐かな頬――私がそこいらに近く見つける小娘などの面ざしは、やがてあの芭蕉の間で、應擧の畫に見つけたと似通ふもののやうでもある。これは藝術が私達の上に働きかける力か。私は應擧の眼を通して、いつの間にかその邊に遊んでゐる村の子供までも見ようとするやうになつたのか。あのイタリーを旅するものには、ゆく先にラフアエルのマドンナを見つけるといふやうに、ちやうど私はそれに似たものであつたかも知れない。いづれにしても、私は應擧の作品と、彼に縁故の深かつたといふこの邊りの環境とを結びつけて、何となくその關係を讀み得たやうに思つた。同行の伊藤君は、この邊の海岸に多い岩や松が應擧の筆そのまゝであることを私に話しきかせてくれたが、この人の眼もまた、應擧が見たやうにしかこのあたりの自然を見ることが出來なくなつたのかも知れない。話し好きな伊藤君に比べると、同君の連れはまた正反對な沈默家だつた。その人は私達と一緒に香住の停車場を乘つてくる時から、自動車で別れるまで、ほとんど默りつゞけてゐた。

    四 山陰道の夏

 東海道あたりの海岸に比べると、この山陰道はおもしろい對照を見せてゐる。こゝには全く正反對のものを見出す。一方に遠淺な砂濱があれば、こゝには切り立つたやうな岩壁がある。一方に高い土用波の立つ頃は、こゝには海の凪《なぎ》の頃である。一方に自然の活動してゐる時は、こゝには自然の休息してゐる季節である。
 偶然にも、私達はその自然の休息してゐる夏の季節を選んで、山陰道の海岸に多い「もち」の樹の葉蔭を樂しみに來たわけだ。土の色の赤いといふことが、全體の基調を成してゐるといつてもいゝほどで、ゆく先の漁村の屋根にすら山陰名物の赤瓦が見られるのもこゝだ。夏の誇りを見せたやうな柘榴《ざくろ》や、ほのかな合歡《ねむ》の木の花なぞがさいてゐて、旅するものの心をそゝるのもこゝだ。岩には燕が飛びかひ、崖には松の林が生ひ茂つてゐて、その深いところには今でもまだ鹿が住んでゐるといはれるのもこゝだ。磯釣の船を浮べて、岸近く寄つてくる黒鯛を突き刺す光景なぞも、こゝではさうめづらしくない。
 私達はあの瀬戸の日和山《ひよりやま》で望んで來た日本海を、城崎から香住までの汽車の窓からも望み、香住では岡見公園といふ眺望のある位置からも望んで見た。大乘寺から程遠からぬところにその小さな岡見公園があつた。そこはまだ公園としての設計も十分に出來てゐないやうな小高い山の上にあつた。私も前途の疲勞を恐れて、そこまではと辭退して見たが、大乘寺へ同行した伊藤君にそゝのかされて、また勇氣を起して坂道を登つた。松林の間を分け行つたところに、「かつたい落し」と名のついた高い崖も見える。信州あたりに姨捨山《をばすてやま》といふと似てゐる。往昔、癩の患者が衆人に忌み嫌はれその崖の上から深い海へ突き落されたのだとは、昔話にしても恐ろしい。山の上には共同の腰かけも置いてあつた。伊藤君のはからひで、近くの茶屋からはサイダーなぞをそこへ運んで來てくれた。城崎の油《ゆ》とうやの若主人はそこまでも私達を案内して來て、一緒に腰かけて休んだ。
 海はよく見えた。私は山陰道の自然を、大體に自分の胸に浮べることも出來るやうになつた。旅に來た私に取つては、それをつかむことが肝要でもあつたのである。言つて見れば、この海岸に連なり續く岩壁は、大陸に面して立つ一大城廓に似てゐる。五ヶ月もの長さにわたるといふ冬季の日本海の猛烈な活動から、その深い風雪と荒れ狂ふ怒濤とから、われわれの島國をよく守るやうな位置にあるのも、この海岸の岩壁である。腰骨の根強さである。おそらく山陰道は、その地勢からいつても、東海道ほどに惠まれてゐないかも知れない。山陽道にもおよばないかも知れない。そのかはりこゝには他に見られない自然の特色があり、到るところに湧き出づる温泉があり、金、銀、鐵、石炭その他の鑛物を産する無盡藏の寶庫もある。折よく私達は日本海の靜かな時に來た。この自然が休息してゐる間に旅をつゞけなければならない。
 豐岡川に、瀬戸に、大乘寺に、それから岡見公園に、その日は私もかなり疲れた。伴れの鷄二は、と見ると、あまり疲れたらしい樣子も見えなかつたが、城崎で聞いて來た岩井の宿へその日のうちに着いて、河鹿の鳴く聲が聞えるといふやうな山間の温泉宿で互の靴のひもを解きたいと思つた。
 香住の停車場で、私達は岩美《いはみ》行の汽車を待つた。岩井まで行かうとするには、更に岩美で汽車を降りたところから、二十分ばかりも自動車の便によらねばならない。夏のさかりで日の長い頃だ。ちやうどその汽車を待つてゐると、以前に東京の方で一度逢つたことのある奧田君が私の側へきてあいさつするのに驚かされた。私も奧田君の顏を忘れずにゐた。同君はある醫學專門學校を出た人だが、まだその學校時代に自作の短篇を抱へて私の飯倉の住居へ見えたのは、あれはもう何年前のことか。思ひがけないところで舊知の人に逢つた。聞いて見ると、香住は同君の郷里で、今では小兒科、婦人科の醫者として多くの患者に接しつゝあるといふ。
「かうして田舍に開業してゐますと、いつまたお目にかゝれることやら。かういふ機會は、私にはめつたに來ません。さう思つたものですから、けふはあなたを探しに來ました。」
 さういふ奧田君は、しばらく創作の筆もとらないと言つて、汽車の出るまで私の側に立ちつくして、醫專時代の昔をなつかしさうにしてゐた。
 城崎の油とうやの若主人はその日一日私達の好い案内者であつた。岩井まで一緒に、とこの人が言つてくれるのを強ひて私達も辭退しかねた。こゝまで案内して來たものだ、案内ついでに、岩井まで見送らうではないかと、若主人はいつて、また一緒に汽車に乘つた。香住から五つ目の驛に岩美の停車場があつて、そこまで乘つてゆくと但馬の國を離れる。縣も鳥取と改まる。岩美から岩井の村までは平坦な道で、自動車に換へてからの乘心地も好かつた。
 日の暮れる頃に、岩井に着いた。思つたほどの山の中ではなかつたが、しづかな田舍の街道に沿うたところに、私達の泊つた明石屋の温泉宿があつた。そこは因幡國《いなばのくに》のうちだと思ふだけでも、何となく旅の氣分を改めさせた。湯も熱かつたが、しかし入り心地はわるくなかつた。その晩は夏らしい月もあつて、宿の裏二階の疊の上まで射し入つた。庭にある暗い柿の葉も、ところ/″\月に光つて涼しい。東京の方の留守宅のこともしきりに胸に浮ぶ。鷄二も旅らしく、宿の繪葉書などを取りよせた。
「どれ、楠《くう》ちやんのところへ葉書でも出すかナ。」
「東京へもお前に頼む。」
 旅の頼りも鷄二が私に代つて書いた。私はまた宿の主人に所望して、土地での湯かむり歌といふものを聽かせてもらつた。いつの頃からのならはしか、土地の人達は柄杓《ひしやく》ですくふ湯を頭に浴びな
前へ 次へ
全11ページ中3ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング