がら歌ふ。うたの拍子は湯をうつ柄杓の音から起る。きぬたでも聽くやうで、野趣があつた。この湯かむり歌もたしかに馳走の一つであつた。山間とはいひながら、かうした宿でも蚊帳を吊つたので、その晩は遲くなつてから鷄二と二人蚊帳のなかに枕を並べて寢た。

    五 浦富海岸

 浦富《うらどめ》の海岸に出た。
 七月の十日は早く岩井の宿を發《た》つて來て、浦富海岸で時を送ることにした。浦富の栗村君は始めて逢つた人だが、前の晩にわざ/\岩井の宿まで見えて、海岸の好いことを話されるので、私もその方に心が動いたのである。
 浦富は、桐山城址のある四百戸ばかりの町で、山陰線の岩美驛から海の方へ寄つたところにある。山陰方面には海水浴場の地としても知られてゐる。驛から乘合自動車の便もある。栗村君はそこの町長で、私達のために船を出す用意までして待ちうけてゐてくれた。私としては、既に瀬戸や香住の山の上から望んで來た日本海の方へもつと近く出ていつて見るといふ樂しみがあり、この附近の海岸を船で見て囘るといふ樂しみがあつた。長いこと東京麻布の町の中に暮しつゞけて來た私は、自分の都會生活が自然に遠ければ遠いほど、餘計に海邊の空氣と日光と潮風とをこひしく思つた。それほど私は海にも餓ゑてゐた。
 發動機船の用意が出來た。私達は栗村君のほかに、鳥取から見えた岡田君とも一緒になつた。この岡田君には、土地を案内してもらへといつて、大阪を出る時に紹介の名刺をもらつて來た人だ。鳥取までゆかないうちに、私達は岡田君を見ることが出來たわけだ。その日は二人の大學生とも一緒であつた。一人は栗村君の子息さんで、一人はその學友であるといふ。年若で支度ざかりの好い青年達だ。やがて一同船に乘らうとして海邊にある黄ばんだ砂を踏んでいつた。その邊には鰯網などが干してあつた。渚《なぎさ》のさまも、湘南地方あたりに思ひ比べると、餘程變つて見える。こゝには、自然の胸の鼓動を聞くやうな大きな波の音が、間を置いては響けてくるといふ風でない。今はこの海岸の夏らしい時だ。青い海を渡つて來る南風が私達の顏を撫でて通るやうな時だ。全く靜かだ。私達は岸近くあらはれてゐる岩石の間をつたつて順に一人づつ船に移つた。
 栗村君は、曾つて詩人|國府犀東《こくぶさいとう》氏をこの浦富に迎へ地質に精しいなにがし大學の教授をも迎へた時のことを私に話し、この附近に多い岩壁と洞窟と島々岩々とを船から指して見せ、ほとんど研究的といつていゝ程の熱心さで、そこの集塊岩には甌穴《おうけつ》がある。こゝの花崗岩には岩脈がある。と私に説明してくれた。こゝには東海岸と、西海岸とある。私達はまづ東海岸から見て囘つた。

 無數の島々から成る眺めの好い場所といふと、人はよく松島あたりを比較に持ち出す。この比較は浦富には當てはまらない。松島はあの通り岸から離れた島々のおもしろさであるのに、私達がこゝに見つけるものはむしろ岸に倚り添ふ島島の眺めであるのだから。こゝでは海岸全體が積み重ね積み重ねした感じをもつて私達に迫つて來る。これはこの附近にかぎらず、やがて山陰道を通じての海岸の特色であらう。松島は松島、浦富は浦富だ。
 しかし、何といつてもこゝの東海岸にある洞窟には私も心をひかれた。そこへ行くと、好いとか惡いとかいふやうなところを通り越して、深い自然の力に引きずり込まれてしまふ。龍神洞とは、國府犀東氏がその洞窟の一つのために選んだ名であると聞く。幾つかの洞窟の中で、もつとも深いのもその龍神洞である。
 七月の日は海にかゞやいてゐた。私達が乘つて行つた發動機船の後からは、別に一艘の小舟が追つて來たがそれは栗村君の計らひと知れた。やがて小舟は親船の側に繋がれた。私達はその方に移つて、小舟に搖られながら洞窟の前に近づいた。そこは太い石柱を中央にした扉の無い門に似てゐる。何ほどの深さがその奧にあるとは、誰もいふことは出來ないが舟の行けるところまでは、およそ百五十間としてあるといふ。二つの洞門の入口には海水が通じてゐて、その一方から船頭が舟を進めようとした。
「雫だ。雫だ。」
 といふ聲が船の中に起つた。見あげるやうに高い岩の上には青草が生茂つてゐてそこから清水が滴り落ちた。濡れないやうにと首をちゞめたものも、皆、入口のところでひやりとさせられた。
 同行の岡田君がいふ「秋のやうな涼しさ」はひし/\と私の身にも迫つて來た。その空氣の感じだけでも、私達の氣分を變へさせるに十分だつた。暗い洞窟の内部は岩燕の巣食ふところとかで、無數の翼が兩岸の岩をかすめて飛んだ。
「こんなところがあらうとは、ちよつと思はれないナ。」
「さうだね。一人ではちよつとこゝへ來る氣がしないね。」
 私と鷄二とは顏を見合せたくらゐだ。鷄二は美術書生らしく岩壁の色なぞに眼をとめて、そこに白もある、こゝに紫もあると私にいつて見せたが、洞門から射し入る日の光はその邊りに附着する色さま/″\な藻《も》を美しく見せたばかりでなく、水の中に潛む魚の形までもあり/\と照らして見せた。
 太古からでも變らずにあるやうな靜かさが、この洞窟の奧を支配してゐた。その時になると、私は自分の側に鷄二のゐることも忘れ、同行の栗村君、岡田君、それから二人の大學生のゐることも忘れ、その兩岸の狹い奧のところで舟をあやつることに心を碎くやうな船頭のゐることも忘れ、全く自然と二人きりであるやうな心地にかへつた。
 暗い岩壁の間を通して見ると、青く澄んだ海水は神祕に光つて美しい。しかし、何となく私はこんなところに長くゐられないやうな氣もして來た。早く逃げて歸りたいとさへ思つた。

 私達は神祕な海から上つて、現實の濱邊に歸つた。その日はちやうど附近の小學校の先生達の懇親會もあつて、私達の船が西海岸を※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]る時にはそれらの人達をも一緒に載せて行つたが、中途ですこし風が出て來たのと、船醉するものもあつたのとで、元來た濱邊をさして歸りを急いだのである。
 觀潮樓はこの海濱に臨んだ位置にあつた。そこはおもに汽船の乘客と海水浴客のためにあるやうな旅館であつた。栗村君の案内で、三階に上つて見ると、私達はその位置から自分等の乘り捨てて置いて來た船を、自分等の上つて來た岸を、自分等の踏んで來た砂の道を眺めることも出來、かなたには自分等の見て※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]つて來た海岸の一部をも見渡すことも出來た。小學校の先生達は後※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]しにした東海岸の方に心が殘ると見え、風もおだやかになつた頃から更に船をださうとしてゐた。今度は女の先生達まで加はつて、濱邊はにぎやかだ。鷄二は私と一緒に旅館の三階の廊下を歩いて、まだ海水浴には早からうかなどといつてゐたが、やがて廊下にある籐椅子の上に腰をおろして、旅の寫生帳を取り出した。
 この海岸へくるまでの私のつもりでは、船で辨當でもつかふぐらゐの簡單なことにして、旅では成るべく土地の人達に心配をかけないやうにと願つてゐたが、來て見ればやはりさうもいかない。正午すこし過ぎたころ、岡田君も一緒で場所柄らしい馳走を受けた。鱸《すゞき》の洗ひ、烏賊の團子、海の素麺など、いづれも栗村君の心づくしだ。食事後に、栗村君はすゞりと筆と白扇とを取りよせ、その日の記念にと私に揮毫を求められた。つたない筆の跡を臆面もなく殘して行くやうで、私も心苦しかつたが、強ひて辭退するのもどうかと思つて、求めらるゝまゝに白扇をひろげて見た。その時、旅のかばんの中に白の畫箋紙の片のいれてあつたことを思ひだした。それは鷄二が鉛筆ばかりでなしに、筆と墨で寫生を試みたい場合もあらうかといつて東京から持つて來たものだ。私は書きにくい白扇よりも、その紙片の方を選んで、日頃好きな芭蕉の言葉の中から一つ二つを書いて贈ることにした。
「余が風雅は夏爐冬扇のごとし、衆に逆《さか》ひて用ふるところなし。」
 熱い汗は私の顏に流れた。
 栗村君は今の町長をつとめる前に水産學校の校長として教育事業にたづさはつた時代もあつたと聞く。私は始めてこの人に逢つた時から、眉の長く眼もとの涼しい容貌に心をひかれ、その毅然たる態度にも心をひかれたが、だん/\話してゐるうちに、この町長が學問のある譯もわかつた。同君には七人もの子があることをも知つた。學生が法廷に立つといふ今の時代に、一人の子息さんを大學の法文科に學ばせ、他の子息さん達を高等學校その他に送つてゐる同君が、親としての心づかひも一通りでないといふ話も出た。
「何といつても、親の力のおよぶのは十臺までですね。人の一生は幼年期、少年期で決するやうなものですね。」
 私は栗村君とこんなことを語り合つた。
 いつの間にか鷄二は見えなかつた。水泳好きな彼は人氣のない海水浴場の方へ駈けだして行つたが、やゝしばらくして海から引返して來た。
「まだ水の中は冷たいね。」
 と私にいつて見せた。
 思はず私達は時を送つた。鳥取まで同行しようといつてくれる岡田君にうながされて、やがて浦富を辭したのは午後の四時近い頃であつた。夕立でも來さうな空模樣で、ひどく蒸暑い空氣の中をまた私達は山陰線の汽車に搖られて行つた。その晩は鳥取の小錢屋《こぜにや》といふ宿に泊る。

    六 鳥取の二日

「茄子に、ごんぼは、いらんかな。」
 私達はこんな物賣りの聲の聞えるやうな、古風な宿屋の二階に來てゐた。この山陰の旅に來て見て、一圓均一の自動車が行く先に私達を待つてるにはまづ驚かされる。あれの流行して來たのは東京あたりでもまだ昨日のことのやうにしか思はれないのに、今日はもうこんな勢で山陰地方にまでゆきわたつた。人力車の時代は既に過ぎて、全國的な自動車の流行がそれに變りつゝある。こんな餘事までも考へながら、前の日に一臺の自動車で鳥取の停車場前から乘つて來た私達はその車に旅の手荷物を積み、浦富からずつと一緒の岡田君とも同乘で、山陰道でも屈指な都會の町の中へはじめて來て見る思ひをした。私達は右を見、左を見して、自動車で袋川を渡つて來た。まだ流行の全集本が地方の豫約募集を終りきらないころで、祭禮のやうに紅い旗が往來の人の眼をひいてゐた。私達はかごをかついで通る魚賣りなぞの眼につくやうな、町の空氣の濃いところへ來て、古めかしい石の門のある宿屋の前で車から降りたが、そこが岡田君の案内してくれた小錢屋であつた。
 七月の十一日は、私はすこし腹具合を惡くしてゐたので、旅疲れのしたからだを一日休めることにした。ちやうど私達は宿で赤兒の生れたところへ泊り合せて、ほとんど自分等二人きりで風通しのよい二階の座敷を占領したやうな形であつた。客もすくない二階の表廊下へ出ると、めづらしい實を結んだ棕梠の庭樹の間から、鳥取の町の空が見えた。今をさかりと咲き誇る夾竹桃《けふちくたう》の花の梢も夏らしいやうな裏の廊下の方へも行つて見た。きのふは町の屋根の上に晝の花火を望んだのもそこだ。遠くの寺からでもひゞいてくるやうな靜かな鐘の音を聞きつけたのもそこだ。宿の女中に頼んで置いた按摩も來てくれたので、午前のうちに私はすこし横になつて寢ながら土地の話を聞いた。こゝには腸のさはりを調《とゝの》へるに好い藥草もあると聞いて、試みにそのせんじ藥なぞを取りよせて飮んだ。
 連れの鷄二はぢつとしてゐなかつた。午前のうちには古い城址の方まで歩き※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]りに行つたといつて汗をふき/\歸つて來た。午後からはまた宿へ訪ねてくれた岡田君と連立つて、この地方の海岸に名高い砂丘の方へと出かけた。私一人になると、一層二階は靜かだ。私はさびしく樂しい旅の晝寢に、大阪の扇を取り出して見、豐岡川の方で見て來た青い蘆、瀬戸の日和山での歸りがけに思ひがけなく自分の足許へ飛び出した青蛙のことを思ひ出して見て、そんな眼に殘る印象にも、半日の徒然《つれ/″\》を慰めようとした。ちやうど宿の老人がこの私の側へ來て、その日は初孫の顏を見てから三日目にあたるといつて、生れた男の子のために名をつけることを私に頼むといふ。
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