息に汽車で松江まで延びることにした。そこで、三朝を發つた。
私と鷄二とが上井《あげゐ》の停車場まで元來た道を引返して、そこまで見送つてくれた神田君に別れたのは、午後の四時頃であつた。私達はまた親子二人きりで松江行の汽車の一隅に腰かけ、山陰線らしい車中の人達の風俗を眺め、眼にいるものすべて始めてでないものはないやうな海岸の方へ出て行くといふ樂しみをもつた。名高い伯耆《はうき》の大山《だいせん》の姿も次第に車窓から望まれるやうになつた。あの信濃路あたりに見るやうな高峻な山岳は望まれないまでも、幾つかの峯の頂きを並べたやうな連山の輪廓はかなり長く延びてゐて、たしかにこの地方の單調を破つてゐた。これが汽車でなしに、歩きながらの旅であつたら。私はそのことを胸に描いて見て、大山に添ひながらのこの海岸の旅もさぞ樂しからうと思った。
下市《しもいち》の驛まで乘つて行つたころは、遠く望んで見る大山でなしに、山の麓までも見得るやうになつた。雲の蒸す日で、山の頂きは隱れて見えなかつた。それが反《かへ》つて山の容《すがた》を一層大きく見せた。ある雲はその中腹に、ある雲はその頂きの方に走つてゐた。御來屋《みくりや》の驛まで乘つて行つた。そこまでゆくと、大山の溪谷までもかすかにあらはれて來た。それが雨後によく見る濃い桔梗色であるのも美しい。更に名和の驛まで乘つて行つた。私達は歴史に名高い船上山《せんじやうさん》を望んだ。海岸に寄つた方に山角のとがつたのがそれだつた。米子《よなご》の一つ手前には、伯耆大山といふ名の驛もある。その時になると、高く望まれる赤い山のがけから、樹木のない谷間まで、私達の旅の心がどうその傾斜をほしいまゝに馳せ囘らうと自由だつた。私達は、午後の五時半ごろの日が山腹に青く光るのを見て、米子の驛まで乘つていつた。
「最早、出雲だ」
思はず私は周圍を見※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]した。遠い古代の人の想像がその時私の胸に浮んだ。これから私が訪ねようとする出雲地方とは、いはゆる夜見《よみ》の國である。そしてその夜見の國とは、古代の人の想像した死の國である。どうして出雲地方が死の國であるのか。それは神話と現實との混淆であるのか。我國の最初の母なる神、造物神、その伊邪那美《いざなみ》の神の永遠に眠れる墳墓の地とは伯耆と出雲の國境にあるといひ傳へられるところから、さういふ想像が生れて來たのか。いづれとも私にはいふことが出來ない。兎もあれ、旅の私達が出て行つたところは、暗い黄泉《よみ》の國どころか、むしろその反對に、ちよつと他に見られないほどやはらかく明るい感じのする地方であつた。俗謠で知らないもののない安來《やすき》とはこゝか、さう思つてその驛を通り過ぎて行くと、山陰らしい赤い土の色が、城崎や香住あたりで見て來たよりも更に濃い。崖も赤く、傾斜も赤い。赤い桑畑もめづらしい。夕日は海の方にかゞやいて、何となく水郷に入るの感もあつた。それもそのはずである。私達が出て行つた岸は、夜見が濱とは反對の側にある廣い入江に添うたところであつたから。陸には稻田も多かつた。畑にはすでに青い葡萄を見、長く延びた唐玉黍《たうもろこし》の穗をも見た。揖屋《いや》の驛を過ぎた。小蒸汽船、帆船、小舟などを汽車の窓から望むことの出來るやうな光景がひらけた。私達は七時近い頃まで乘つて行つて、宍道湖の水に映る岸の家々の燈火がちら/\望まれる頃に、松江に入つた。
鳥取の方で聞いて來たところによると、東京から大阪まで百五十里、大阪から鳥取まで五十里、鳥取から米子へ二十五里、それより松江へ八里、都合およそ二百三十三里はあらうとのことであつた。松江の宿に着いた時は思はず私も溜息が出た。この溜息は、はげしい暑さを凌いで漸くこゝまで來たといふ溜息であつた。
松江本町、大橋の畔に近いところが私達の宿の皆美館《みなみくわん》のあるところだ。三人の女の兒が人形のやうに並んで宿の帳場に近い部屋で夕飯の膳についてゐたのが、先づ眼についた。私は旅の鞄の中に三朝土産のとち餅を入れて來たことを思ひ出し、子供達へといつて、それを女中に持たせてやると、やがて三人とも宿のおかみさんに連れられて私達の部屋へお辭儀に來た。姉は九歳、妹達は八歳と六歳になるといふ。いづれも可愛らしい女の兒だ。
「これはいゝ宿だ。」
私と鷄二とは互にそれを言つて、出雲らしい空の見える二階の部屋にくつろいだ。宍道湖も靜かな時だ。岸をひたす水の音が石垣の下のところから、かすかに聞えて來るぐらゐの時だ。湖水に浮ぶ長い大橋の眺めもちよつと江州の瀬田の橋を思ひ出させるやうなところで、私達は暑い一日の旅を終つた後での入浴後の樂しい心持を語り合つた。鷄二はまた鷄二で、大阪の宿の方の噂までもそこへ持ち出して、風呂場の番頭に脊を流して貰つたはよかつたが、どうにもくすぐつたく、自分の内股をつねつて漸くそれを我慢したことなぞを白状して、私を笑はせた。
この松江へ來るまでの途中での旅の印象、そこで望んで來た入江の水、そこで望んで來た岸の青田なぞは、まだ私の眼にあつた。その中には恐ろしいまでに龜裂を生じた田もあつて、あれはことしの旱《ひで》り續きの結果か、いや、あれが鹽田といふものか、と汽車中の乘客が大騷ぎしたことも忘れられない。松江に來て見て、この地方にも田植時分の雨の少なかつたことを知つた。こんな水郷の感じのするところで、どうして水に不自由したらう。それを私が宿の女中にたづねたら、
「水は水でも、潮水でございますもの。」
それが女中の返事であつた。農夫等は水を見ながら、乾いた田をどうすることも出來なかつたといふ。さういふ田は今年だけ畑にして、また來年の田植の時を待つといふことであつた。
私達親子のものは、めつたにこんな旅を一緒にしたこともない。二人きりとなると、互ひの旅の心持も比べて見たい。
「御覽な、どこの宿屋へ行つても二の膳付だぜ。御馳走して貰ふのはありがたいが、みんな食べられるやうな物を出したらどうだらう。」
「いや、僕はさう思はないね。お客さまの好きなものもあれば、嫌ひなものもある。宿屋ではそこまでは分らないだらう。だからいろ/\なものをそこへ並べて出せば、お客さまは自分の好きな物を喰ふ。お父さんのやうな人ばかりがお客さまぢやないからね。」
「お前のいふことも、一理窟あるかナ。」
こんな話も旅らしい。
この松江の宿で、私達は七月十四日の朝を迎へた。大橋は水に映つて、岸から垂れさがる長い柳の影もすゞしい。私達の眼にある光と影とで、朝の湖水らしくないものはなかつた。何を見ても眼がさめるやうであつた。舟のすきな鷄二は石垣の下に繋いである宿の小舟を見つけ、早速宿の主人に交渉して、朝のうちにそこいらを漕ぎ※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]つて來た。まだ朝飯には間があつた。私も鷄二と一緒に舟で宍道湖の上に浮んで見た。櫓は私もすきで、東京淺草の新片町に住んだ時分にはよくあの隅田川の方へ舟を出したこともある。舟も何年振りか。それを私も思ひ出して自分でも櫓《ろ》をあやつりながら嫁ヶ島の方角をさして漕ぎ出して見ると、思つたよりもその邊の水の淺いことも分つた。澤山な蜻蛉《とんぼ》の群は水の上を飛んでゐた。私達はその朝の空氣の中で、時々びつくりするやうな魚の飛ぶ音をも聞きつけた。その邊の藻の多いところには、流れるまゝに舟を任せて置いて、鰻でも引き揚げて行くらしい漁夫もあつた。
二人の客が訪ねて來た。
古川君、太田君、二人とも私には初對面の客である。古川君のことは大阪で聞いて、紹介の名刺まで貰つて持つて來てある。私はこちらから訪ねないうちに、同君を自分等の宿に迎へることが出來た。同道の太田君は松江商業會議所書記長の肩書はありながら、俳人としては柿葉といつて、故大須賀乙字氏なぞに親しい交際があつたと聞くもなつかしい。私達は行く先で好い案内者を得たばかりでなく、今また二人までも出雲地方のことに詳しい人達に逢つて、全く土地不案内な自分等の手引と頼むことの出來たのはうれしかつた。
「山陰道の樂しいのはいつでせう。夏でせうか。それとも、冬でせうか。」
私は信濃の山の上に、七年も暮したことのある自分の經驗から押して、普通なら夏の旅を樂しいといはれてゐるあの地方に、住んで見ると長い冬期の味の深かつたことを思ひ出して、そんなことを太田君に尋ねて見た。
「やつぱり冬でせうな。夏の山陰には優しい方面しかありません。夏を見たばかりで、ほんたうの山陰らしい特色を味はつて頂いたとはいへないかも知れません。」
松江を生れ故郷とする太田君の答は、私の待ち受けた通りでもあつた。同君は慶應出身とやらで、思ひがけないところで水上瀧太郎君や久保田万太郎君の噂も出た。いろ/\な話の末に、柏原まで一茶の生地を訪ねに行つた時のことも出、その時に信濃路を旅して見たことも出て、信州人と出雲人との間には何處かに共通したもののあることを私に話し聞かせたのもこの太田君だ。
「お疲れでせうから、いづれまた。」
明日を約束して兩君は歸つて行つた。その後で、私は太田君の殘して置いて行つた話を思ひ出して湖水に浮ぶ大橋の方を望んで見た。私達が泊つた宿の二階の位置は、向うの橋の上を通る男や女の下駄の音を聞くほどの距離にある。毎年の盆の季節が來ると、草市はその長い橋の上に立つ。太田君は草市の翌朝に通つて見て、まだ草の香りがそこに殘つてゐた時のことを忘れがたいといつた。
連日の旅で、私達の着るものはひどく汗になつた。着更へのワイシヤツなども三日とは肌に着けられなかつた。それほど暑さに苦しんだ。せめて松江ではゆつくりして行かう。それを私は鷄二にも話して、その日一日は宿で暮すことにした。思ひ做《な》しの故《せゐ》か、袖ヶ浦の向うに見える一帶の山々までが横になつて、足でもそこへ投げ出してゐるかのやうでもある。それがのんびりとした感じを人に與へる。旅の私にまで、先づ休んで行け、といつてゐるやうにも見える。淡水湖と聞く宍道湖の水は、山上の湖水のやうに重苦しくなく、海のやうに激しい變化もない。湖上に波の騷がない日はないとも聞く嚴冬の季節は知らないこと、今は自然も休息してゐる時である。
連れの鷄二はかういふ日だとばかり、かねて用意して來た畫布なぞを、廊下のところに取り出し、おもしろく造つてある庭の一部から湖水まで、餘念もなくその畫面のうちに取り入れてゐた。そこでは庭の砂の色まで明るい。無果花《いちじく》の枝に小さな浴衣なぞの掛けて乾かしてあるのも、宿の女の兒達の着るものかと見えて愛らしい。
「なんだか、こゝへ來ると好い氣持になつてしまふね。」
時々鷄二は、そんなことをいつて、描《か》きかけの繪筆もそこに投げ捨て、庭から岸の石垣の方へ降りて行つた。泳ぎか、舟か、暇さへあれば鷄二は湖水に出て遊んだ。
「父さん、こゝの人達の話を聞いて見た? 出雲なまりといふやつは隨分變つてるね。僕が舟の中でスケツチしてゐると、通る船頭が二人で話してゐたが、何をいふかさつぱり分らなかつた。」
と鷄二はいつてゐた。見ると、岸に繋いだ小舟から薪を背負つて、宿の勝手口の方へと運んで行く男もある。その男は背に小蓑をあててゐる。鷄二はそれを私に指して見せて、
「父さん、御覽。僕等の國の方では『せいた』を使ふが、こちらの人はあんな藁の紐で背負つて行くよ。遠いところは、とてもあんなことぢや駄目だがなあ。」
こんな比較を語つた。薪の背負ひ方にかぎらず、關東を見た眼でこの地方を見ると、いろ/\な相違を見つけることも多かつた。櫓の綱の長く、櫓壺の淺く、櫓ちんの割合にはづれ易く見えるなぞもその一つだつた。この邊の人の小舟の漕ぎ方は上海あたりのジヤンクを私に思ひ出させた。
その日は舊い暦の上での十六日に當つた。私は遠く離れて來てゐる東京の留守宅のことを胸に浮かべて、ことしの盆はどうしたらうなぞと思ひやつた。夕方には、大橋の方の柳の枝のかげあたりから、提燈のやうな大きな月が上つた。
九 境港と美保《みほ》の關《せき》
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