映《う》つるとき
名もなき賤の片びさし
春の夜風の音を絶え
村の南のかたほとり
その夜生れし牝《め》の馬は
流るゝ水の藍染《あゐぞめ》の
青毛《あをげ》やさしき姿なり
北に生れし雄《を》の馬の
栗毛にまじる紫は
色あけぼのの春霞
光をまとふ風情《ふぜい》あり
星のひかりもをさまりて
噂《うはさ》に残る鶴の音や
啼く鶯に花ちれば
嗚呼この村に生れてし
馬のありとや問ふ人もなし

   雄馬《をうま》

あな天雲《あまぐも》にともなはれ
緑の髪をうちふるひ
雄馬は人に随《したが》ひて
箱根の嶺《みね》を下《くだ》りけり
胸は踴《をど》りて八百潮《やほじほ》の
かの蒼溟《わだつみ》に湧くごとく
喉《のど》はよせくる春濤《はるなみ》を
飲めども渇《かわ》く風情あり
目はひさかたの朝の星
睫毛《まつげ》は草の浅緑《あさみどり》
うるほひ光る眼瞳《ひとみ》には
千里《ちさと》の外《ほか》もほがらにて
東に照らし西に入る
天つみそらを渡る日の
朝日夕日の行衛《ゆくへ》さへ
雲の絶間に極むらん
二つの耳をたとふれば
いと幽《かすか》なる朝風に
そよげる草の葉のごとく
蹄《ひづめ》の音をたとふれば
紫金
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