ぞと
のがれいでては住みなれし
御寺《みてら》の蔵裏《くり》の白壁《しらかべ》の
眼にもふたたび見ゆるかな

いざさらば
住めば仏のやどりさへ
火炎《ほのほ》の宅《いへ》となるものを
なぐさめもなき心より
流れて落つる涙かな

いざさらば
心の油濁るとも
ともしびたかくかきおこし
なさけは熱くもゆる火の
こひしき塵《ちり》にわれは焼けなむ
[#改段]

二 六人の処女《をとめ》


  おえふ

処女《をとめ》ぞ経《へ》ぬるおほかたの
われは夢路《ゆめぢ》を越えてけり
わが世の坂にふりかへり
いく山河《やまかは》をながむれば

水《みづ》静《しづ》かなる江戸川の
ながれの岸にうまれいで
岸の桜の花影《はなかげ》に
われは処女《をとめ》となりにけり

都鳥《みやこどり》浮《う》く大川に
流れてそゝぐ川添《かはぞひ》の
白菫《しろすみれ》さく若草《わかぐさ》に
夢多かりし吾《わが》身かな

雲むらさきの九重《ここのへ》の
大宮内につかへして
清涼殿《せいりょうでん》の春の夜《よ》の
月の光に照らされつ

雲を彫《ちりば》め濤《なみ》を刻《ほ》り
霞《かすみ》をうかべ日をまねく
玉の台《うてな》の欄干《おばしま》に
かゝるゆふべの春の雨

さばかり高き人の世の
耀《かがや》くさまを目にも見て
ときめきたまふさま/″\の
ひとりのころもの香《か》をかげり

きらめき初《そ》むる暁星《あかぼし》の
あしたの空に動くごと
あたりの光きゆるまで
さかえの人のさまも見き

天《あま》つみそらを渡る日の
影かたぶけるごとくにて
名《な》の夕暮に消えて行く
秀《ひい》でし人の末路《はて》も見き

春しづかなる御園生《みそのふ》の
花に隠れて人を哭《な》き
秋のひかりの窓に倚《よ》り
夕雲とほき友を恋ふ

ひとりの姉をうしなひて
大宮内の門《かど》を出《い》で
けふ江戸川に来て見れば
秋はさみしきながめかな

桜の霜葉《しもは》黄に落ちて
ゆきてかへらぬ江戸川や
流れゆく水静かにて
あゆみは遅きわがおもひ

おのれも知らず世を経《ふ》れば
若き命《いのち》に堪へかねて
岸のほとりの草を藉《し》き
微笑《ほほゑ》みて泣く吾身かな

  おきぬ

みそらをかける猛鷲《あらわし》の
人の処女《をとめ》の身に落ちて
花の姿に宿《やど》かれば
風雨《あらし》に渇《かわ》き雲に饑《う》ゑ
天翅《あまかけ》るべき術《すべ》をのみ
願ふ心のなかれとて
黒髪《くろかみ》長き吾身こそ
うまれながらの盲目《めしひ》なれ

芙蓉《ふよう》を前《さき》の身とすれば
泪《なみだ》は秋の花の露
小琴《をごと》を前《さき》の身とすれば
愁《うれひ》は細き糸の音
いま前《さき》の世は鷲の身の
処女にあまる羽翼《つばさ》かな

あゝあるときは吾心
あらゆるものをなげうちて
世はあぢきなき浅茅生《あさぢふ》の
茂れる宿《やど》と思ひなし
身は術《すべ》もなき蟋蟀《こほろぎ》の
夜《よる》の野草《のぐさ》にはひめぐり
たゞいたづらに音《ね》をたてて
うたをうたふと思ふかな

色《いろ》にわが身をあたふれば
処女のこゝろ鳥となり
恋に心をあたふれば
鳥の姿は処女にて
処女ながらも空《そら》の鳥
猛鷲《あらわし》ながら人の身の
天《あめ》と地《つち》とに迷ひゐる
身の定めこそ悲しけれ

  おさよ

潮《うしほ》さみしき荒磯《あらいそ》の
巌陰《いはかげ》われは生れけり

あしたゆふべの白駒《しろごま》と
故郷《ふるさと》遠きものおもひ

をかしくものに狂へりと
われをいふらし世のひとの

げに狂はしの身なるべき
この年までの処女《をとめ》とは

うれひは深く手もたゆく
むすぼほれたるわが思《おもひ》

流れて熱《あつ》きわがなみだ
やすむときなきわがこゝろ

乱《みだ》れてものに狂ひよる
心を笛の音《ね》に吹かん

笛をとる手は火にもえて
うちふるひけり十《とを》の指

音《ね》にこそ渇《かわ》け口唇《くちびる》の
笛を尋《たづ》ぬる風情《ふぜい》あり

はげしく深きためいきに
笛の小竹《をだけ》や曇るらん

髪は乱れて落つるとも
まづ吹き入るゝ気息《いき》を聴《き》け

力をこめし一ふしに
黄楊《つげ》のさし櫛《ぐし》落ちてけり

吹けば流るゝ流るれば
笛吹き洗ふわが涙

短き笛の節《ふし》の間《ま》も
長き思《おもひ》のなからずや

七つの情《こころ》声を得て
音《ね》をこそきかめ歌神《うたがみ》も

われ喜《よろこび》を吹くときは
鳥も梢《こずゑ》に音《ね》をとゞめ

怒《いかり》をわれの吹くときは
瀬《せ》を行く魚も淵《ふち》にあり

われ哀《かなしみ》を吹くときは
獅子《しし》も涙をそゝぐらむ

われ楽《たのしみ》を吹くときは
虫も鳴く音《ね》をやめつらむ

愛のこゝろを吹くとき
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