流るゝ水のたち帰り

悪《にくみ》をわれの吹くときは
散り行く花も止《とどま》りて

慾《よく》の思《おもひ》を吹くときは
心の闇《やみ》の響《ひびき》あり

うたへ浮世《うきよ》の一ふしは
笛の夢路のものぐるひ

くるしむなかれ吾《わが》友よ
しばしは笛の音《ね》に帰れ

落つる涙をぬぐひきて
静かにきゝね吾笛を

  おくめ

こひしきまゝに家を出《い》で
こゝの岸よりかの岸へ
越えましものと来て見れば
千鳥鳴くなり夕まぐれ

こひには親も捨てはてて
やむよしもなき胸の火や
鬢《びん》の毛を吹く河風よ
せめてあはれと思へかし

河波《かはなみ》暗く瀬を早み
流れて巌《いは》に砕《くだ》くるも
君を思へば絶間なき
恋の火炎《ほのほ》に乾《かわ》くべし

きのふの雨の小休《をやみ》なく
水嵩《みかさ》や高くまさるとも
よひ/\になくわがこひの
涙の滝におよばじな

しりたまはずやわがこひは
花鳥《はなとり》の絵にあらじかし
空鏡《かがみ》の印象《かたち》砂の文字
梢の風の音にあらじ

しりたまはずやわがこひは
雄々《をを》しき君の手に触れて
嗚呼《ああ》口紅《くちべに》をその口に
君にうつさでやむべきや

恋は吾身の社《やしろ》にて
君は社の神なれば
君の祭壇《つくゑ》の上ならで
なににいのちを捧《ささ》げまし

砕《くだ》かば砕け河波《かはなみ》よ
われに命はあるものを
河波高く泳ぎ行き
ひとりの神にこがれなん

心のみかは手も足も
吾身はすべて火炎《ほのほ》なり
思ひ乱れて嗚呼恋の
千筋《ちすぢ》の髪の波に流るゝ

  おつた

花|仄《ほの》見ゆる春の夜の
すがたに似たる吾命《わがいのち》
朧々《おぼろおぼろ》に父母《ちちはは》は
二つの影と消えうせて
世に孤児《みなしご》の吾身こそ
影より出でし影なれや
たすけもあらぬ今は身は
若き聖《ひじり》に救はれて
人なつかしき前髪《まへがみ》の
処女《をとめ》とこそはなりにけれ

若き聖《ひじり》ののたまはく
時をし待たむ君ならば
かの柿の実をとるなかれ
かくいひたまふうれしさに
ことしの秋もはや深し
まづその秋を見よやとて
聖に柿をすゝむれば
その口唇《くちびる》にふれたまひ
かくも色よき柿ならば
などかは早くわれに告げこぬ

若き聖ののたまはく
人の命の惜《を》しからば
嗚呼《ああ》かの酒を飲むなかれ
かくいひたまふうれしさに
酒なぐさめの一つなり
まづその春を見よやとて
聖に酒をすゝむれば
夢の心地に酔ひたまひ
かくも楽しき酒ならば
などかは早くわれに告げこぬ

若き聖ののたまはく
道行き急ぐ君ならば
迷ひの歌をきくなかれ
かくいひたまふうれしさに
歌も心の姿なり
まづその声をきけやとて
一ふしうたひいでければ
聖は魂《たま》も酔ひたまひ
かくも楽しき歌ならば
などかは早くわれに告げこぬ

若き聖ののたまはく
まことをさぐる吾身なり
道の迷《まよひ》となるなかれ
かくいひたまふうれしさに
情《なさけ》も道の一つなり
かゝる思《おもひ》を見よやとて
わがこの胸に指ざせば
聖は早く恋ひわたり
かくも楽しき恋ならば
などかは早くわれに告げこぬ

それ秋の日の夕まぐれ
そゞろあるきのこゝろなく
ふと目に入るを手にとれば
雪より白き小石なり
若き聖ののたまはく
智恵の石とやこれぞこの
あまりに惜しき色なれば
人に隠して今も放《はな》たじ

  おきく

くろかみながく
    やはらかき
をんなごころを
    たれかしる

をとこのかたる
    ことのはを
まこととおもふ
    ことなかれ

をとめごころの
    あさくのみ
いひもつたふる
    をかしさや

みだれてながき
    鬢《びん》の毛を
黄楊《つげ》の小櫛《をぐし》に
    かきあげよ

あゝ月《つき》ぐさの
    きえぬべき
こひもするとは
    たがことば

こひて死なんと
    よみいでし
あつきなさけは
    誰《た》がうたぞ

みちのためには
    ちをながし
くにには死ぬる
    をとこあり

治兵衛はいづれ
    恋か名か
忠兵衛も名の
    ために果《は》つ

あゝむかしより
    こひ死にし
をとこのありと
    しるや君

をんなごころは
    いやさらに
ふかきなさけの
    こもるかな

小春はこひに
    ちをながし
梅川こひの
    ために死ぬ

お七はこひの
    ために焼け
高尾はこひの
    ために果つ

かなしからずや
    清姫は
蛇《へび》となれるも
    こひゆゑに

やさしからずや
    佐容姫《さよひめ》は
石となれるも
    こひゆゑに

をとこのこひの
    たはぶれは
たびにすてゆく
    なさけのみ


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