手にしたコップをすこし傾《かし》げて見せた。炭素がその玻璃板《ガラスいた》の間から流れると、蝋燭の火は水を注ぎ掛けられたように消えた。
 高瀬は戸口に立って眺めていた。
 無邪気な学生等は学士の机の周囲《まわり》に集って、口を開くやら眼を円くするやらした。学士がそのコップの中へ鳥か鼠を入れると直ぐに死ぬという話をすると、それを聞いた生徒の一人がすっくと起立《たちあが》った。
「先生、虫じゃいけませんか」
「ええ、虫は鳥などのように酸素を欲しがりませんからナ」
 問を掛けた生徒は、つと教室を離れて、窓の外の桃の樹の側に姿を顕《あらわ》した。
「ア、虫を取りに行った」
 と窓の方を見る生徒もある。庭に出た青年は桜の枝の蔭を尋ね廻っていたが、間もなく戻って来て、捕えたものを学士に勧めた。
「蜂ですか」と学士は気味悪そうに言った。
「怒ってる――螫《さ》すぞ螫すぞ」
 と口々に言い騒いでいる生徒の前で、学士は身を反《そ》らして、螫されまいとする様子をした。蜂はコップの中へ押し入れられた。それを見た生徒等は意味もなく笑った。「死んだ、死んだ」と言うものもあれば、「弱い奴」と言うものも有った。蜂は
前へ 次へ
全62ページ中34ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング