人は笑い出した。隠居さんの小屋のあたりで、湯場の方から上って来る正木大尉の奥さんにも逢った。大尉の奥さんは湯上りの好い顔色で、子供を連れて、丁寧に二人に挨拶《あいさつ》して通った。
浴場には桜井先生も広岡学士も来ていた。先生は身体を拭いて上りかけたところで、学士だけ鉱泉の中に心地よさそうに入っていた。硝子《ガラス》戸の外には葡萄《ぶどう》の蔓《つる》も延び延びとして、林檎《りんご》の植えられた畠なども見える。
「子安君はナカナカ好い身体ですネ――」
と学士に言われて、子安は随分苦学もして来たらしい締った毛脛《けずね》を撫《な》でた。
「どうです、我輩の指は」
とその時、学士は左の手をひろげて、半分しかない薬指を出して見せた。
「ホウ」と子安は眼を円くした。
「一寸気が着かないでしょう。これにはそもそも歴史がある――ベエスの記念でサ」
学士は華やかな大学時代を想い起したように言って、その骨を挫《くじ》かれた指で熱球を受け損じた時の真似《まね》までして見せた。
三人が連立って湯場を出、桜井先生の別荘の方へ上って行った時は、先生は皆なを待受顔に窓に近い庭石に水をそそいでいた。先生は
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