刻煙草《きざみたばこ》を巻きながら、よく「軍隊に居た時分」を持ち出す。時には、音吉が鈴を振鳴しても、まだ皆な火鉢の側に話し込むという風であった。
「正木さん、一寸この眼鏡を掛けて御覧なさい」
「まだ私は老眼鏡には早過ぎる――ヤ、これは驚いた――こう側へ寄せたよりも、すこし離した方が猶よく見えますナ――広岡先生、いかが」
「成程、よく見えます」
「ヒドイものですナ――」
こんな話をしても、時は楽しく過ぎた。
近くて湯のある中棚は皆なの交歓に適した場所だった。子安がいくらか土地に馴染《なじ》んだ頃、高瀬も誘われて塾から直ぐに中棚の方へ歩いて行って見た。子安が東京から来て一月ばかり経つ時分には藤の花などが高い崖から垂下って咲いていた谷間が、早や木の葉の茂り合った蔭の道だ。暗いほど深い。
岡の上へ出ると、なまぬるい微《かす》かな風が黄色くなりかけた麦畠を渡って来る。麦の穂と穂の擦《す》れる音が聞える。強い、掩《おお》い冠さって来るような叢《くさむら》の香気《におい》は二人を沈黙させた。二語《ふたこと》、三語《みこと》物を言って見て、復た二人とも黙って歩いた。
崖の道を降りかけて、漸く二
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