《きま》った。荒れるに任せた谷陰には椚林《くぬぎばやし》などの生《お》い茂ったところもある。桜井先生は大尉を誘って、あちこちと見て廻った。今ある自分の書斎――その建物だけを、先生はこの鉱泉|側《わき》に移そうという話を大尉にした。
 対岸に見える村落、野趣のある釣橋《つりばし》、河原つづきの一帯の平地、遠い近い山々――それらの眺望は先生方を悦《よろこ》ばせた。日あたりの好いことも先生方を悦ばせた。この谷間は割合に豊饒《ほうじょう》で、傾斜の上の方まで耕されている。眼前《めのまえ》に連なる青田は一面緑の波のように見える。士族地からここへ通って来るということも先生方を悦ばせた。あの樹木の蔭の多い道は大尉の住居《すまい》からもさ程遠くはなかった。
 その翌日から、桜井先生は塾の方で自分の受持を済まして置いて、暇さえあればここへ見廻りに来た。崖下に浴場を経営しようとする人などが廻って来ないことはあっても、先生の姿を見ない日は稀《まれ》だった。そして、そこに土管が伏せられるとか、ここに石垣の石が運ばれるとか、何かしらずつ変ったものが先生の眼に映った。河原続きの青田が黄色く成りかける頃には、先生の
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