を立てて、そこにマゴマゴして震えている妻の方へ行った。お島が庭口へ下りて戸を開けた時は、広岡学士と体操教師の二人が暗い屋外から舞い込むようにやって来た。
 高瀬は洋燈《ランプ》を上《あが》り端《はな》のところへ運んだ。馬場裏を一つ驚かしてくれようと言ったような学士等の紅い磊落《らいらく》な顔がその灯に映った。二人とも脚絆《きゃはん》に草履掛という服装《なり》だ。
「これ、水でも進《あ》げナ」
 と、高瀬が妻に吟附《いいつ》けた。
 お島はやや安心して、勝手口のほうから水を持って来た。学士は身体の置き処も無いほど酔っていたが、でも平素の心を失うまいとする風で、朦朧《もうろう》とした眼を※[#「※」は「めへん+登」、251−2]《みは》って、そこに居る夫婦の顔や、洋燈に映るコップの水などをよく見ようとした。
 学士のコップを取ろうとする手は震えた。お島はそれを学士の方へ押しすすめた。
「どうも失礼……今日は二人で山遊びに出掛けて……酩酊《めいてい》……奥さん、申訳がありません……」
 学士は上り框のところへ手をついて、正直な、心の好さそうな調子で、詫《わ》びるように言った。
 体操の教師は磊落に笑出した。学士の肩へ手を掛けて、助けて行こうという心づかいを見せたが、その人も大分上機嫌で居た。
 よろよろした足許で、復た二人は舞うように出て行った。高瀬は屋外《そと》まで洋燈《ランプ》を持出して、暗い道を照らして見せたが、やがて家の中へ入って見ると、余計にシーンとした夜の寂寥《さびしさ》が残った。
 何となく荒れて行くような屋根の下で、その晩遅く高瀬は枕に就いた。時々眼を開いて見ると、部屋の中まで入って来る饑《う》えた鼠の朦朧と、しかも黒い影が枕頭《まくらもと》に隠れたり顕れたりする。時には、自分の身体にまで上って来るような物凄《ものすご》い恐怖に襲われて、眼が覚めることが有った。深夜に、高瀬は妻を呼起して、二人で台所をゴトゴト言わせて、捕鼠器《ねずみとり》を仕掛けた。

 その年の夏から秋へかけて、塾に取っては種々な不慮の出来事があった。広岡学士は荒町裏の家で三月あまりも大患《おおわずら》いをした。誰が見ても助かるまいと言った学士が危く一命を取留めた頃には、今度は正木大尉が倒れた。大尉は奥さんの手に子供衆を遺し、仕掛けた塾の仕事も半途で亡くなった。大尉の亡骸《なきがら》は士
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