岩石の間
島崎藤村

−−
【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)桑畠《くわばたけ》

|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)鉱泉|側《わき》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、底本のページと行数)
(例)帰って行った。[#「。」は底本では「、」。227−17]
−−

 懐古園の城門に近く、桑畠《くわばたけ》の石垣の側で、桜井先生は正木大尉に逢った。二人は塾の方で毎朝合せている顔を合せた。
 大尉は塾の小使に雇ってある男を尋ね顔に、
「音《おと》はどうしましたろう」
「中棚の方でしょうよ」桜井先生が答えた。
 中棚とはそこから数町ほど離れた谷間《たにあい》で、新たに小さな鉱泉の見つかったところだ。
 浅間の麓《ふもと》に添うた傾斜の地勢は、あだかも人工で掘割られたように、小諸城址《こもろじょうし》の附近で幾つかの深い谷を成している。谷の一つの浅い部分は耕されて旧士族地を取囲《とりま》いているが、その桑畠や竹薮《たけやぶ》を背《うしろ》にしたところに桜井先生の住居《すまい》があった。先生はエナアゼチックな手を振って、大尉と一緒に松林の多い谷間の方へ長大な体躯《からだ》を運んで行った。
 谷々は緑葉に包まれていた。二人は高い崖《がけ》の下道に添うて、耕地のある岡の上へ出た。起伏する地の波はその辺で赤土まじりの崖に成って、更に河原続きの谷底の方へ落ちている。崖の中腹には、小使の音吉が弟を連れて来て、道をつくるやら石塊《いしころ》を片附けるやらしていた。音吉は根が百姓で、小使をするかたわら小作を作るほどの男だ。その弟も屈強な若い百姓だ。
 兄弟の働いている側で先生方は町の人達にも逢った。人々の話は鉱泉の性質、新浴場の設計などで持切った。千曲川《ちくまがわ》への水泳の序《ついで》に、見に来る町の子供等もあった。中には塾の生徒も遊びに来ていて、先生方の方へ向って御辞儀した。生徒等が戯れに突落す石は、他の石にぶつかったり、土煙を立てたりして、ゴロゴロ崖下の方へ転がって行った。
 堀起された岩の間を廻って、先生方はかわるがわる薄暗い穴の中を覗《のぞ》き込んだ。浮き揚った湯の花はあだかも陰気な苔《こけ》のように周囲《まわり》の岩に附着して、極く静かに動揺していた。
 新浴場の位置は略《ほぼ》崖下の平地と定
次へ
全31ページ中1ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング