《きま》った。荒れるに任せた谷陰には椚林《くぬぎばやし》などの生《お》い茂ったところもある。桜井先生は大尉を誘って、あちこちと見て廻った。今ある自分の書斎――その建物だけを、先生はこの鉱泉|側《わき》に移そうという話を大尉にした。
対岸に見える村落、野趣のある釣橋《つりばし》、河原つづきの一帯の平地、遠い近い山々――それらの眺望は先生方を悦《よろこ》ばせた。日あたりの好いことも先生方を悦ばせた。この谷間は割合に豊饒《ほうじょう》で、傾斜の上の方まで耕されている。眼前《めのまえ》に連なる青田は一面緑の波のように見える。士族地からここへ通って来るということも先生方を悦ばせた。あの樹木の蔭の多い道は大尉の住居《すまい》からもさ程遠くはなかった。
その翌日から、桜井先生は塾の方で自分の受持を済まして置いて、暇さえあればここへ見廻りに来た。崖下に浴場を経営しようとする人などが廻って来ないことはあっても、先生の姿を見ない日は稀《まれ》だった。そして、そこに土管が伏せられるとか、ここに石垣の石が運ばれるとか、何かしらずつ変ったものが先生の眼に映った。河原続きの青田が黄色く成りかける頃には、先生の小さな別荘も日に日に形を成して行った。霜の来ないうちに早くと、崖の上でも下でも工事を急いだ。
雪が来た。谷々は三月の余も深く埋《うず》もれた。やがてそれが溶け初める頃、復《ま》た先生は山歩きでもするような服装《なり》をして、人並すぐれて丈夫な脚《あし》に脚絆《きゃはん》を当て、持病のリョウマチに侵されている左の手を懐《ふところ》に入れて歩いて来た。残雪の間には、崖の道まで滲《にじ》み溢《あふ》れた鉱泉、半ば出来た工事、冬を越しても落ちずにある茶色な椚《くぬぎ》の枯葉などが見える。先生は霜のために危く崩《くず》れかけた石垣などまで見て廻った。
この別荘がいくらか住まわれるように成って、入口に自然木の門などが建った頃には、崖下の浴場でもすっかり出来上るのを待たないで開業した。別に、崖の中途に小屋を建てて、鉱泉に老を養おうとする隠居さん夫婦もあった。
春の新学年前から塾では町立の看板を掛けた。同時に、高瀬という新教員を迎えることに成った。学年前の休みに、先生は東京から着いた高瀬をここへ案内して来た。岡の上から見ると中棚鉱泉とした旗が早や谷陰の空に飜《ひるがえ》っている。湯場の煙も薄く上
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