好《ぶかっこう》な枝は、その年も若葉を着けた。微かな甘い香がプンと彼の鼻へ来た。彼は縁側に凭《もた》れて、五月の日のあたった林檎の花や葉を見ていたが、妻のお島がそこへ来て何気なく立った時は、彼は半病人のような、逆上《のぼ》せた眼付をしていた。
「なんだか、俺は――気でも狂《ちが》いそうだ」
と串談《じょうだん》らしく高瀬が言うと、お島は縁側から空を眺めて、
「髪でも刈って被入《いら》っしたら」
と軽い返事をした。
急に大きな蜜蜂《みつばち》がブーンという羽の音をさせて、部屋の中へ舞い込んで来た。お島は急いで昼寝をしている子供の方へ行った。庭の方から入って来た蜂は表の方へ通り抜けた。
「鞠《まあ》ちゃんはどうしたろう」と高瀬がこの家で生れた姉娘のことを聞いた。
「屋外《そと》で遊んでます」
「また大工さんの家の娘と遊んでいるじゃないか。あの娘は実に驚いちゃった。あんな荒い子供と遊ばせちゃ困るナア」
「私もそう思うんですけれど、泣かせられるくせに遊びたがる」
「今度誘いに来たら、断っちまえ。――吾家《うち》へ入れないようにしろ――真実《ほんと》に、串談《じょうだん》じゃ無いぜ」
夫婦は互に子供のことを心配して話した。
血気|壮《さか》んなものには静止《じっと》していられないような陽気だった。高瀬はしばらく士族地への訪問も怠っていた。しかしその日は塾の同僚を訪《おとな》うよりも、足の向くままに、好きな田圃道を歩き廻ろうとした。午後に、彼は家を出た。
岩と岩の間を流れ落ちる谷川は到るところにあった。何度歩いても飽きない道を通って、赤坂裏へ出ると、青麦の畠が彼の眼に展《ひら》けた。五度《いつたび》熟した麦の穂は復た白く光った。土塀《どべい》、白壁の並び続いた荒町の裏を畠づたいに歩いて、やがて小諸の町はずれにあたる与良町の裏側へ出た。非常に大きな石が畠の間に埋まっていた。その辺で、彼は野良仕事をしている町の青年の一人に逢った。
最早青年とも言えなかった。若い細君を迎えて竈《かまど》を持った人だ。しばらく高瀬は畠側の石に腰掛けて、その知人《しりびと》の畠を打つのを見ていた。
その人は身を斜めにし、うんと腰に力を入れて、土の塊《かたまり》を掘起しながら話した。風が来て青麦を渡るのと、谷川の音と、その間には蛙の鳴声も混って、どうかすると二人の話はとぎれとぎれに通ずる。
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