見やすと、御蔭で吾家《うち》でもいくらか広くいたしやした」
 こう内儀さんも働きながら言った。
 そのうちに学士の誂《あつら》えた銚子《ちょうし》がついて来た。建増した奥の部屋に小さなチャブ台を控えて、高瀬は学士とさしむかいに坐って見た。一口やるだけの物がそこへ並んだ。
 学士はこの家の子のことなどを親達に尋ねながら、手酌で始めた。
「高瀬君、まあ話して行って下さいナ。ここは心易い家でしてネ、それにお内儀さんがあの通り如才ないでしょう、つい前を通るとこんなことに成っちまうんです」
「私も小諸へ来ましてから、いくらかお酒が飲めるように成りました」
「でしょう。一体にこの辺の人は強酒《ごうしゅ》です。どうしても寒い国の故《せい》でしょうネ。これで塾では誰が強いか。正木さんも強いナ」
 高瀬は酒が欲しくないと言って唯話相手に成っていた。彼は学校通いの洋服のポケットから田舎風な皮の提げ煙草入を取出した。都会の方から来た頃から見ると、髪なども長く延ばし、憂鬱な眼付をして、好きな煙草を燻《ふか》し燻し学士の話に耳を傾けた。
「どうでしょう、高瀬君、今度塾へ御願いしました伜《せがれ》の奴は。あれで弟と違って、性質は温順《すなお》な方なんですがネ。あれは小学校に居る時代から図画が得意でして、その方では何時でも甲を貰って来ましたよ。私が伜に、お前は何に成るつもりだッて聞きましたら、僕は大きく成ったら、泉先生のように成るんだなんて……あれで物に成りましょうか……」
 学士はチビリチビリやりながら、言葉を継いだ。
「妙なもので、家内はまた莫迦《ばか》に弟の方を可愛がるんです。弟の言うことなら何でも閲く。私がそれじゃ不可《いけない》と言うと、そこで何時でも言合でサ……家内が、父さんは繁の贔負《ひいき》ばかりしている、一体父さんは甘いから不可、だから皆な言うことを聞かなくなっちまうんだ、なんて……兄の方は弱いでしょう、つい私は弱い方の肩を持つ……」
 学士は頬と言わず額と言わず顔中手拭で拭き廻した。
「しかし、高瀬君、どうしてこんなに御懇意にするように成ったかと思うようですネ……貴方のところでも、今、お子さんはお二人か……実際、子供は骨が折れますよ。お二人位の時はまだそれでも宜《よ》う御座んす。私共を御覧なさい、あの通りウジャウジャ居るんですからネ……加《おまけ》に、大飯食《おおめしぐら》い
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