仲間には受《うけ》が好い。奇人ですネ」
 そういう学士も維新の戦争に出た経歴のある人で、十九歳で初陣《ういじん》をした話がよく出る。塾では、正木大尉はもとより、桜井先生も旧幕の旗本《はたもと》の一人だ。
 懐古園とした大きな額の掛った城門を入って、二人は青葉に埋れた石垣の間へ出た。その辺は昼休みの時間などに塾の生徒のよく遊びに来るところだ。高く築き上げられた、大きな黒ずんだ石の側面はそれに附着した古苔と共に二人の右にも左にもあった。
 旧足軽の一人が水を担いで二人の側を会釈して通った。
 矢場は正木大尉や桜井先生などが発起で、天主台の下に小屋を造って、楓《かえで》、欅《けやき》などの緑に隠れた、極く静かな位置にあった。丁度そこで二人は大尉と体操の教師とに逢った。まだ他の顔触《かおぶれ》も一人二人見えた。一時は塾の連中が挙《こぞ》ってそこへ集ったことも有ったが、次第に子安の足も遠くなり、桜井先生もあまり顔を見せない。高瀬が園内の茶屋に預けてある弓の道具を取りに行って来て学士に交際《つきあ》うというは彼としてはめずらしい位だ。
「そもそも大弓を始めてから明日で一年に成ります」と仲間うちでは遅く始めた体操の教師が言った。
「一年の御|稽古《けいこ》でも、しばらく休んでいると、まるで当らない――なんだか冗談のようですナ」強弓をひく方の大尉も笑った。
 何となく寂《さ》びれて来た矢場の中には、古城に満ち溢《あふ》れた荒廃の気と、鳴《なり》を潜めたような松林の静かさとに加えて、そこにも一種の沈黙[#「沈黙」に傍点]が支配していた。皮の剥《は》げたほど古い欅の若葉を通して、浅間一帯の大きな傾斜が五月の空に横《よこた》わるのも見えた。矢場の後にある桑畠の方からはサクを切る百姓の鍬《くわ》の音も聞えて来た。そこは灌木《かんぼく》の薮の多い谷を隔てて、大尉の住居にも近い。
 学士は一番弱い弓をひいたが、熱心でよく当るように成った。的も自分で張ったのを持って来て、掛け替えに行った。
「こりゃ驚いた。尺二ですぜ。しっかり御頼申《おたのもう》しますぜ」と大尉は新規な的の方を見て矢を番《つが》った。
「ポツン」と体操の教師は混返《まぜかえ》すように。
「そうはいかない」
 大尉は弓返《ゆがえ》りの音をさせて、神経的に笑って、復た沈鬱な無言に返った。
 桑畠に働いていた百姓もそろそろ帰りかける頃
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