事室の方に籠って、暇さえあれば独りで手習をした。桜井先生は用にだけ来て、音吉が汲んで出す茶を飲んで、復た隣の自分の室の方へ行った。受持の時間が済めば、先生は頭巾《ずきん》のような隠士風の帽子を冠って、最早《もう》若樹と言えないほど鬱陶《うっとう》しく枝の込んだ庭の桜の下を自分の屋敷かさもなければ中棚の別荘の方へ帰って行った。
子安も黙って了った。子安は町の医者の娘と結婚して、士族屋敷の方に持った新しいホームから通って来た。後から仲間入をした日下部――この教員はまた性来《もとから》黙っているような人だ。
この教員室の空気の中で、広岡先生は由緒《いわれ》のありそうな古い彫のある銀煙管《ぎんぎせる》の音をポンポン響かせた。高瀬は癖のように肩を動《ゆす》って、甘そうに煙草を燻《くゆら》して、楼階《はしごだん》を降りては生徒を教えに行った。
ある日、高瀬は受持の授業を終って、学士の教室の側を通った。学士も日課を済ましたところであったが、まだ机の前に立って何か生徒に説明していた。机の上には大理石の屑《くず》、塩酸の壜《びん》、コップなどが置いてあった。蝋燭《ろうそく》の火も燃えていた。学士は手にしたコップをすこし傾《かし》げて見せた。炭素がその玻璃板《ガラスいた》の間から流れると、蝋燭の火は水を注ぎ掛けられたように消えた。
高瀬は戸口に立って眺めていた。
無邪気な学生等は学士の机の周囲《まわり》に集って、口を開くやら眼を円くするやらした。学士がそのコップの中へ鳥か鼠を入れると直ぐに死ぬという話をすると、それを聞いた生徒の一人がすっくと起立《たちあが》った。
「先生、虫じゃいけませんか」
「ええ、虫は鳥などのように酸素を欲しがりませんからナ」
問を掛けた生徒は、つと教室を離れて、窓の外の桃の樹の側に姿を顕《あらわ》した。
「ア、虫を取りに行った」
と窓の方を見る生徒もある。庭に出た青年は桜の枝の蔭を尋ね廻っていたが、間もなく戻って来て、捕えたものを学士に勧めた。
「蜂ですか」と学士は気味悪そうに言った。
「怒ってる――螫《さ》すぞ螫すぞ」
と口々に言い騒いでいる生徒の前で、学士は身を反《そ》らして、螫されまいとする様子をした。蜂はコップの中へ押し入れられた。それを見た生徒等は意味もなく笑った。「死んだ、死んだ」と言うものもあれば、「弱い奴」と言うものも有った。蜂は
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