りか》を知ったことを思出した。彼は都会の人の知らない蜂の子のようなものを好んで食ったばかりでなく、田圃側に葉を垂れている「すいこぎ」、虎杖《いたどり》、それから「すい葉」という木の葉で食べられるのを生でムシャムシャ食ったことを思出した。
 高瀬の胸に眠っていた少年時代の記憶はそれからそれと復活《いきかえ》って来た。彼は幾年となく思出したことも無い生れ故郷の空で遠い山のかなたに狐火の燃えるのを望んだことを思出した。気味の悪い夜鷹《よたか》が夕方にはよく頭の上を飛び廻ったことを思出した。彼は初めて入学した村の小学校で狐がついたという生徒の一人を見たことを思出した……
 学士が窓のところへ来た。
「広岡先生の御国はどちらなんですか」と高瀬が聞いた。
「越後」
 と学士は答えた。
 昼過に高瀬が塾を出ようとすると、急に門の外で、
「この野郎|打殺《ぶちころ》してくれるぞ」
 と呼ぶ声が起った。音吉の弟は人をめがけて大きな石を振揚げている。
「あれで、冗談ですぜ」
 と学士もそこへ来て言って、高瀬に笑って見せた。
 荒い人達のすることは高瀬を呆《あき》れさせた。しかしその野蛮な戯れは都会の退屈な饒舌《おしゃべり》にも勝《まさ》って彼を悦ばせた。彼はしばらくこの地方に足を留め、心易い先生方の中で働いて、もっともっと素朴な百姓の生活をよく知りたいと言った。谷の向うの谷、山の向うの山に彼の心は馳《は》せた。

 それから二年ばかりの月日が過ぎた。約束の任期が満ちても高瀬は暇を貰《もら》って帰ろうとは言わなかった。「勉強するには、田舎の方が好い」そんなことを言って、反《かえ》って彼は腰を落着けた。
 更に二年ほど過ぎた。塾では更に教室も建増したし、教員の手も増《ふや》した。日下部《くさかべ》といって塾のためには忠実な教員も出来たし、洋画家の泉も一週に一日か二日程ずつは小県《ちいさがた》の自宅の方から通って来てくれる。しかし以前のような賑《にぎや》かな笑い声は次第に減って行った。皆な黙って働くように成った。
 教員室は以前の幹事室兼帯でも手狭なので、二階の角《すみ》にあった教室をあけて、そっちの方へ引越した。そこに大きな火鉢を置いた。鉄瓶《てつびん》の湯はいつでも沸いていた。正木大尉は舶来《はくらい》の刻煙草《きざみたばこ》を巻きに来ることもあるが、以前のようにはあまり話し込まない。幹
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