した」
「どうして広岡先生のような人がこんな地方へ入り込んで来たものでしょう」
「それは、君、誰も知らない――」
塾の門前に近いところで、二人は学士に追い附いた。
朝顔の話はそこでも学士の口から出た。
「高瀬さん、今朝も咲きましたよ」
「どうも先生の朝顔はむずかしくッて、私にはまだよく解りません」と高瀬は笑いながら言った。
「町の方でポツポツ見に来て下さる方もあります……好きな人もあるんですネ……しかし私はまだ、この土地にはホントに御|馴染《なじみ》が薄い……」
学士は半ば独語《ひとりごと》のように言った。
正木大尉が桑畠の石垣を廻ってニコニコしながら歩いて来た。皆な連立って教員室の方へ行って見ると、桜井先生は早くから来て詰掛けていた。先生は朝のうちに一度中棚まで歩きに行って来たとも言った。
塾の庭にある樹木の緑も深い。清《すず》しそうなアカシヤの下には石に腰掛けて本を開ける生徒もある。濃い桜の葉の蔭には土俵が出来て、そこで無邪気な相撲《すもう》の声が起る。この山の上へ来て二度七月をする高瀬には、学校の窓から見える谷や岡が余程親しいものと成って来た。その田圃側《たんぼわき》は、高瀬が行っては草を藉《し》き、土の臭気《におい》を嗅ぎ、百姓の仕事を眺め、畠の中で吸う嬰児《あかんぼ》の乳の音を聞いたりなどして、暇さえあれば歩き廻るのを楽みとするところだ。一度消えた夏らしい白い雲が復た窓の外へ帰って来た。高瀬はその熱を帯びた、陰影の多い雲の形から、青空を流れる遠い水蒸気の群まで、見分けがつくように成った。
休みの時間毎に、高瀬は窓へ行った。極く幼少《おさな》い時の記憶が彼の胸に浮んで来た。彼は自分もまた髪を長くし、手造りにした藁《わら》の草履を穿いていたような田舎の少年であったことを思出した。河へ抄《すく》いに行った鰍《かじか》を思出した。榎《え》の樹《き》の下で橿鳥《かしどり》が落して行った青い斑《ふ》の入った羽を拾ったことを思出した。栗の樹に居た虫を思出した。その虫を踏み潰《つぶ》して、緑色に流れる血から糸を取り、酢《す》に漬け、引き延ばし、乾し固め、それで魚を釣ったことを思出した。彼は又、生きた蛙を捕《つかま》えて、皮を剥《は》ぎ、逆さに棒に差し、蛙の肉の一片《ひときれ》に紙を添えて餌《えさ》をさがしに来る蜂《はち》に与え、そんなことをして蜂の巣の在所《あ
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