朝顔狂《あさがおきちがい》ですから、小諸へ来るが早いか直ぐに庭中朝顔鉢にしちまいました――この棚は音さんが来て造ってくれましたよ――まあこんな好い棚を――」
 と高瀬に話した。奥さんはユックリ朝顔を眺められないという風に言ったが、夫の好きな花に趣味も持たない人では無いらしかった。彼女は学士が植えて楽む種々《いろいろ》な朝顔の変り種の名前などまでもよく暗記《そら》んじていた。
「高瀬さんに一つ、私の大事な朝顔を見て頂きましょうか」
 と学士が言って、数ある素焼の鉢の中から短く仕立てた「手長」を取出した。学士はそれを庭に向いた縁側のところへ持って行った。鉢を中にして、高瀬に腰掛けさせ、自分でも腰掛けた。
 奥さんは子供衆の方にまで気を配りながら、
「これ、繁、塾の先生が被入《いら》しったに御辞儀しないか――勇、お前はまた何だッてそんなところに立っているんだねえ――真実《ほんとう》に、高瀬さん、私も年を取りましたら、気ぜわしくなって困りますよ――」
 奥さんの小言の飛沫《とばしり》は年長《うえ》のお嬢さんにまで飛んで行った。お嬢さんは初々《ういうい》しい頬を紅《あから》めて、客や父親のところへ茶を運んで来た。
 この子供衆の多勢ゴチャゴチャ居る中で、学士が一服やりながら朝顔鉢を眺めた時は、何もかも忘れているかのようであった。
「今咲いてますのは、ホンの丸咲か、牡丹《ぼたん》種ぐらいなものです」と学士は高瀬に言った。「真実《ほんとう》の獅子《しし》や手長と成ったら、どうしても後《おく》れますネ。そのうちに一つ塾の先生方を御呼び申したい……何がなくとも皆さんに集って頂いて、これで一杯|進《あ》げられるようだと可《い》いんですけれど……」

 翌朝高瀬は塾へ出ようとして、例のように鉄道の踏切のところへ出た。線路を渡って行く塾の生徒などもあった。丁度そこで与良町《よらまち》の方からやって来る子安に逢った。毎時《いつも》言い合せたように皆なの落合うところだ。高瀬は子安を待合せて、一諸に塾の方へ歩いた。
 線路|側《わき》の柵について先へ歩いて行く広岡学士の後姿も見えた。
「広岡先生が行くナ」と高瀬が言った。
 子安も歩き歩き、「なんでもあの先生が上田から通って被入《いら》っしゃる時分には、大変お酒に酔って、往来の雪の中に転がっていたことがあるなんて――そんな話ですネ」
「私も聞きま
前へ 次へ
全31ページ中14ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング