思って、その日は一緒に連れて行った。種夫の為に新宿の通りで吸入器を買って、それを家内が提げて帰ったが、丁度|菓物《くだもの》の変りめに成る頃で、医者の細君のところからは夏|蜜柑《みかん》を二つばかりお菊にくれてよこした。
 私の家では、飯を出す客などがあって、混雑した日のことであった。夕方に、お菊は悪い顔をして、遊び友達の方から帰って来た。そして、乳呑児の襁褓《むつき》を温める為に置いてあった行火《あんか》に凭《もた》れて、窓の下のところで横に成った。
「菊ちゃんはどこか悪いんじゃないか」
 こう私は客を前に置いて、家のものに尋ねて見た。お菊はお腹が痛い痛いと言いつつ遊びに紛れていたとのことで、家のものもそれほどには思わなかったのである。姪は熊《くま》の胆《い》を盃に溶かしてお菊に飲ませたりなぞした。
 急に熱が出て来た。子供の持薬だの、近所の医者に診《み》せた位では、覚束《おぼつか》ないということを私達が思う時分は、最早《もう》隣近所では寝沈まっていた。お菊は吐いたり下したりした。それが沈着《おちつ》いて、すこしウトウトしたかと思うと、今度はまた激しい渇《かわき》の為に、枕元にある金盥《かなだらい》の水までも飲もうとした。私は空の白むのを待兼ねて、病児を家内に託して置いて、車で皆川医学士を迎えに行った。まだ夜は明けなかった。町々の疲れた燈火《ともしび》は暗く赤く私の眼に映った。
「菊ちゃん、御医者様が入来《いら》ッしゃるよ」と私が子供の枕元へ帰って来て呼んだ時は、お菊もまだ気がタシカだった。お繁の時のことも有るから、医学士も気の毒がって早速来てくれた。
 家内は蔭の方で、
「貴方がたが入来《いら》ッしゃるちょっと前に、房ちゃんが肩掛を冠《かぶ》って踊って見せたんですよ。その時菊ちゃんも可笑《おか》しがって笑って――『可笑しな房ちゃん!』なんて。まだそんなに正気だったんですよ……。『お水! お水!』ッて困りました……。『御医者様が入来《いら》ッしゃるとお水を下さる』そんなこと言って欺《だま》しましたら、漸《ようや》くそれで温順《おとな》しく成ったところなんですよ……」
 お菊は大きな眼を開いて医学士の方を見たが、やがて泣出しそうに成った。
「菊ちゃん、御医者様に診て頂くんですよ……ね、お水を頂くんでしょう……そうすると直に癒《なお》りますよ」
 と母に言われて、お菊は漸く学士の方へ小さな手を出した。
 少壮ではあるが、篤実な、そしていかにも沈着いた学士の態度は、私達に信頼する心を起させた。学士は子供の腸を洗ってやりたいと言ったが、不便な郊外のことで、近くに洗滌器《せんじょうき》を貸すところも無かった。家内は二三の医者の家を走り廻って、空しく帰って来た。
「一つ注射して見ましょう」
 こう学士が、病児の顔を眺めながら、言出した。
 家内はお菊の胸の辺《あたり》を展《ひろ》げた。白い、柔い、そして子供らしい肌膚《はだえ》が私達の眼にあった。学士は洋服の筒袖を捲《まく》し上げて、決心したような態度で、注肘の針に薬を満たした。
「痛いッ」
 お菊は泣き叫んだ。鋭い注射の針は二度も三度も射された。
 間もなく私はこの病児を抱いて、車で大学病院へ向った。学士も車で一緒に行ってくれた。途次《みちみち》小児科医の家の前を通る度に、学士は車を停めて、更に注射を加えて行こうかと考えて、到頭それも試みずに本郷へ着いた。車の上でお菊の蒼ざめた顔を眺めて行った時に、この児は最早駄目だ、と私は思った。
 病名は消化不良ということであった。この急激な身体の変化は多分夏蜜柑の中毒であろうと言われた。私達の後を追って、大久保に住む一人の友達も、家のものも急いで来た。一刻々々にお菊は変って行った。それから二時間しかこの児は生きていなかった。
 大久保の家では留守居してくれた人達が様子を案じ顔に待っていた。私はお菊の死体を抱きながら車から下りた。最早呼んでも返事をしない子供に取縋《とりすが》って、家内や姪は泣いた。お房も、お繁の亡くなった時とは違って、姉さんらしい顔を泣腫らしていたが、その姿が私にはあわれに思われた。
 お菊は矢張《やはり》長光寺に葬った。親戚や知人《しるべ》を集めて、この娘の為には粗末ながら儀式めいたことをした。狭い墓地には二人の子供がこんな風に並んだ。
          菊 子 の 墓
          繁 子 の 墓
 愛していた娘のことで、家内はよくお房を連れてはこの墓へ通った。
 私の家に復たこのような不幸が起ったということは、いよいよ祈祷の必要を富士講の連中に思わせた。女の先達は復た私の家へ訪ねて来て、それ見たかと言わぬばかりの口調で、散々家内の不心得を責めた。「度し難い家族」――これが先達の後へ残して行った意味だった。
 お菊が生前の遊び友達は、小さな下駄の音をさせて、朝に晩に家の前を通った。家内は窓の格子《こうし》にとりついて、そういう子供の姿を眺める度に、お菊のことを思出していた。
「菊ちゃんが死んじゃったんでは、真実《ほんと》にツマラない」
 こう家内は口癖のように嘆息した。
 私も、散々仕事で疲れた揚句で、急にお菊が居なくなった家の内に坐って見た時は、暴風にでも浚《さら》われて持って行かれたような気がした。山を下りてから、私には安い思をしたという日も少なかった。私の生命《いのち》は根から動揺《ゆすぶ》られ通しだ。
「ナニ、まだお房が居る」
 と私は言って見た。
 麻疹《はしか》後、とかくお房は元気が無かった。亡くなった私の母親を思出させるようなこの娘は、髪の毛の濃く多いところまでも似て来た。信州の牧野君からは子守を一人心配してよこしてくれた頃で、いくらか私の家でも沈着《おちつ》き、手も増えた。二人まで子供を失くしたことを考えて、私達はこの残った娘を大切に見なければ成らないと思った。上野に玩具《おもちゃ》の展覧会があった日には、お房も皆なに連れられて出掛けたが、何を見てもさ程面白がりもしないし、象や猿の居る動物園へ寄っても「早く吾家《おうち》へ帰りましょう」とばかりで、新宿の電車の終点から大久保まで疲れたような顔をして歩いて帰って来た。
 草木も初夏の熱のために蒸される頃と成った。庭には木犀の若葉もかがやいたし、植木屋の盆栽棚には種々な花も咲いたし、裏の畠の方には村の人達が茶を摘んでいたし、何処へ行っても子供に取っては楽しい時であった。お房は一寸遊びに出たかと思うと、直に帰って来てゴロゴロしていた。お繁やお菊で私達も懲《こ》りたから、早速、新宿の医者に見せた。牛込の医者にも見せた。早く薬を服《の》ませて、癒したいと思って、医者の言う通りに、消化の好い物だの、牛乳だの、山家育ちで牛乳が嫌だと言えばミルク・フッドだの、と種々にしていたわった。お房は腸が悪いとのことであった。不思議な熱は出たり引いたりした。
 五月の下旬に入っても、まだお房は薬を服んでいた。勧めてくれる人があって、私はある医者の許《ところ》へこの娘を見せに連れて行った。その時は、大久保に住む一人の友達とも一緒だった。強健《じょうぶ》そうな年寄の医者は、熱のために萎《しお》れた娘を前に置いて、根本から私達の衛生思想が間違っていることを説いた。他の医者が腸の悪い子供に禁物だというようなものでも、すべて好いとした。牛乳のかわりに味噌汁、粥《かゆ》のかわりに餅《もち》、ソップのかわりに沢庵《たくあん》の香の物……それから、この慷慨《こうがい》な老人は、私達が日本固有の菜食を重んじない為に、それで子供がこう弱くなると言って、今日の医学、今日の衛生法、今日の子供の育て方を嘲《あざけ》った。私は娘を連れて、スゴスゴ医者の前を引下った。煎《せん》じ薬を四日分ばかりと、菜食の歌を貰って、大久保へ帰った。
 何となくお房の身体には異状が起って来た。種々な医者に見せ、種々な薬を服ませたが、どうしても熱は除《と》れなかった。時とすると、お房の身体は燃えるように熱かった。で、私も決心して、復た皆川医学士の手を煩《わずら》わしたいと思った。月の末に、学士の勧めに随って、私はお房を大学の小児科へ入院させることにした。
「母さん、前髪を束《と》って頂戴な」
 熱のある身体にもこんなことを願って、お房は母に連れられて行った。私も、姪に留守居をさせて、別に電車で病院の方へ行って見た。病室は静かな岡の上にあった。そこは、三つばかりある高い玻璃窓《ガラスまど》の一つを通して、不忍《しのばず》の池《いけ》の方を望むような位置にある。私は本郷の通りでお房の好きそうなリボンを買って、それを土産に持って行ったが、室《へや》へ入って見ると、お房は最早高い寝台《ねだい》の上に横に成って、母に編物をして貰っているところであった。丁度|池《いけ》の端《はた》には競馬のある日で、時々多勢の人の騒ぐ声が窓の玻璃に響いて来た。
 お房の枕許には、小さな人形だの、箱だのが薬の瓶《びん》と一緒に並べてあった。家内は、寝台の柱にリボンを懸けて見せて、病んでいる子供を楽ませようとした。
「仕舞って置くのよ」
 とお房は言った。
 私達は、部屋付の看護婦の外に、附添の女を一人頼むことにした。この女は私達の腰掛けている傍へ来て、皆川先生の尽力ででもなければ、一人でこういう角の室を占めることは出来ない、これは余程の優待であると話して聞かせた。
 肩の隆《あが》った白い服を着て、左の胸に丸い徽章《きしょう》を着けた、若い肥《ふと》った看護婦が、室の戸を開けて入って来た。この部屋付の看護婦は、白いクロオバアの花束を庭から作って来て、それをお房にくれた。
「房子さん、好いリボンを頂きましたねえ――御土産《おみや》ですか」と看護婦が言った。
「仕舞って置くのよ、仕舞って置くのよ」
 こうお房は繰返していたが、やがて看護婦から貰った花束を握ったまま眠って了った。
 夕方に私は皆川医学士に逢った。お房の病状を尋ねると、今すこし容子《ようす》を見た上でなければ、確めかねるとのことであった。その晩から、私達はかわるがわる子供の傍に居た。
「父さん――父さん――父さんの馬鹿――」
 こう呼ぶ声が私の耳に入った。私は、どうなって行くか分らないような子供の傍に、疲れた自分を見出した。それは病院へ来てから三日目の夜で、宿直の人達も寝沈まったかと思われる頃であった。
「父さん、房ちゃんは最早駄目よ」
 熱の譫語《たわごと》とも聞えなかった。と言って子供の口からこんな言葉が出ようとも思われなかった。私は夢を辿る気がした。
「父さん、房ちゃんは……ねえ……」
 その後が聞きたいと思っていると、パッタリお房の声は絶えた。その晩は私も碌《ろく》に眠らなかった。
 次第にお房はワルく成るように見えた。山で生れて、根が弱い体質の子供で無いから、病に抵抗するだけの力はある筈《はず》だ、とそれを私達は頼みにした。どうかしてこの娘ばかりは助けたく思ったのである。入院して丁度一週間目に成る頃は、私も家のものも子供の傍に附いていた。大久保の方は人に頼んだり、親戚のものに来て泊って貰ったりした。幾晩かの睡眠不足で、皆な疲れた。
 附添の女と私達とは、三人かわるがわる起きて、夜の廊下を通って、看護婦室の先の方まで氷塊《こおり》を砕《か》きに行っては帰って来て、お房の頭を冷した。そして、交代に眠った。疲労《つかれ》と心配とで、私も寝台の後の方に倒れたかと思うと、直《すぐ》に復た眼が覚めた。一晩中、お房は「母さん、母さん」と呼びつづけた。
 まだ夜は明けなかった。私は手拭《てぬぐい》を探して、廊下へ顔を洗いに出た。いくらか清々した気分に成って、引返そうとすると、お房の声は室を泄《も》れて廊下の外まで響き渡っていた。
「母さん――母さん――母さん」
 烈《はげ》しい叫声は私の頭脳《あたま》へ響けた。その焦々《いらいら》した声を聞くと、私は自分まで一緒にどうか成って了うような気がした。
 お房の枕頭《まくらもと》には黒い布を掛けて、光を遮《さえぎ》るようにしてあった。お房は半分夢
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