芽生
島崎藤村

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)麓《ふもと》

|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)菓子|麺包《パン》

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   (数字は、底本のページと行数)
(例)掻※[#「※」は「てへん+毟」、第4水準2−78−12、153−13]《かきむし》った。
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 浅間の麓《ふもと》へも春が近づいた。いよいよ私は住慣れた土地を離れて、山を下りることに決心した。
 七年の間、私は田舎《いなか》教師として小諸《こもろ》に留まって、山の生活を眺《なが》め暮した。私が通っていた学校は貧乏で、町や郡からの補助費にも限りがあったから、随《したが》って受ける俸給も少く、家を支《ささ》えるに骨が折れた。そのかわり、質素な、暮し好い土地で、月に僅《わず》かばかりの屋賃を払えば、粗末ながら五間の部屋と、広い台所と、大きな暗い物置部屋と、桜、躑躅《つつじ》、柿、李《すもも》、林檎《りんご》などの植えてある古い屋敷跡の庭を借りることが出来た。私はまた、裏の流れに近い畠《はたけ》の一部を仕切って借りて、学校の小使に来て手伝わせたり、自分でも鍬《くわ》を執って耕したりした。そこには、馬鈴薯《じゃがいも》、大根、豆、菜、葱《ねぎ》などを作って見た。
 こういう中で、私は別に自分の気質に適《かな》ったことを始めた。それは信州へ入ってから六年目、丁度長い日露戦争の始まった頃であった。町から出る学校の経費はますます削減される、同僚の体操教師も出征する、卒業した生徒の中にも兵士として出発するものがある、よく私はそういう人達を小諸の停車場に見送って、悲壮な別離を目撃した。東京にある知人も多く従軍した。一年の間、この大きな戦争の空気の中で、私はある著作に従事した。
 種々《いろいろ》な困難は、猶《なお》、私の前に横たわっていた。一方には学校を控えていたから、思うように自分の仕事も進捗《はかど》らなかった。全く教師を辞《や》めて、専心従事するとしても、猶一年程は要《かか》る。私は既に三人の女の児の親である。その間妻子を養うだけのものは是非とも用意して掛らねばならぬ。
 とにかく、小諸を去ることに決めた。山を下りて、そして自分の仕事を完成したいと思った。
 岩村田通いの馬車の喇叭《らっぱ》が鳴った。私は小諸相生町の角からその馬車に乗った。引越の仕度をするよりも、何よりも、先《ま》ず一人の友達を訪ねて、その人の助力を得たいと思ったのである。その日は他に同行を約束した人もあったが、途中の激寒を懼《おそ》れて見合せた。私は独《ひと》りで出掛けた。雪はまだ深く地にあった。馬車が浅間の麓を廻るにつれて、乗客は互に膝《ひざ》を突合せて震えた。岩村田で馬車を下りて、それから猶山深く入る前に、私はある休茶屋の炉辺《ろばた》で凍えた身体を温めずにはいられなかった位である。一里半ばかりの間、往来する人も稀《まれ》だった。谷々の氾濫《はんらん》した跡は真白に覆われていた。
 訪ねて行った友達は、牧野君と言って、こういう辺鄙《へんぴ》な山村に住んでいた。ふとしたことから、私はこの若い大地主と深く知るように成ったのである。ここへ訪ねて来る度《たび》に、この友達の静かな書斎や、樹木の多い庭園や、それから好く整理された耕地などを見るのを私は楽みにしていたが、その日に限っては心も沈着《おちつ》かなかった。主人を始め、細君や子供まで集って、広い古風な奥座敷で、小諸に居る人の噂《うわさ》などをした。この温い家庭の空気の中で、唯私は前途のことばかり思い煩《わずら》った。事情を打開けて、話して見よう、話して見ようと思いながら、翌日に成ってもついそれを言出す場合が見当らなかった。
 到頭、言わず仕舞《じまい》に、牧野君の家の門を出た。そして、制《おさ》えがたい落胆と戦いつつ、元来た雪道を岩村田の方へ帰って行った。一時間あまり、乗合馬車の立場《たてば》で待ったが、そこには車夫が多勢集って、戦争の話をしたり、笑ったりしていた。思わず私も喪心した人のように笑った。やがて小諸行の馬車が出た。沈んだ日光は、寒い車の上から、私の眼に映った。林の間は黄に耀《かがや》いた。私は眺め、かつ震えた。小諸の寓居《ぐうきょ》へ帰ってからも、私はそう委《くわ》しいことを家のものに話して聞かせなかった。
 南向の障子に光線《あかり》をうけた部屋は、家内や子供の居るところである。末の子供はお繁《しげ》と言って、これは私の母の名をつけたのだが、その誕生を済ましたばかりの娘が、炬燵《こたつ》へ寄せて、寝かしてあった。暦や錦絵《にしきえ》を貼《はり》付けた古壁の側には、六歳《むっつ》に成るお房と、四歳《よっつ》に成るお菊とが、お手玉の音をさせながら遊んでいた。そこいらには、首のちぎれた人形も投出してあった。私は炬燵にあたりながら、姉妹《きょうだい》の子供を眺めて、どうして自分の仕事を完成しよう、どうしてその間この子供等を養おう、と思った。
 お房は――私の亡くなった母に肖《に》て――頬の紅い、快活な性質の娘であった。妙に私はこの総領の方が贔屓《ひいき》で、家内はまた二番目のお菊贔屓であった。丁度牧野君から子供へと言って貰《もら》って来た葡萄《ぶどう》ジャムの土産《みやげ》があった。それを家内が取出した。家内は、雛《ひな》でも養うように、二人の子供を前に置いて、そのジャムを嘗《な》めさせるやら、菓子|麺包《パン》につけて分けてくれるやらした。
 私がどういう心の有様で居るか、何事《なんに》もそんなことは知らないから、お房は機嫌《きげん》よく私の傍へ来て、こんな歌を歌って聞かせた。
 「兎、兎、そなたの耳は
  どうしてそう長いぞ――
  おらが母の、若い時の名物で、
  笹の葉ッ子|嚥《の》んだれば
  それで、耳が長いぞ」
 これは家内が幼少《おさな》い時分に、南部地方から来た下女とやらに習った節で、それを自分の娘に教えたのである。お房が得意の歌である。
 私は力を得た。その晩、牧野君へ宛てた長い手紙を書いた。
 幸にも、この手紙は私の心を友達へ伝えることが出来た。その返事の来た日から、牧野君は私の仕事に取っての擁護者であった。しかも、それを人に知らそうとしなかった。私は牧野君の深い心づかいを感じた。そして自分のベストを尽すということより外にこの友達の志に酬《むく》うべきものは無いと思った。
 四月の始から一週間ばかりかけて、私は家を探しがてら一寸《ちょっと》上京した。渋谷、新宿――あの辺を探しあぐんで、ある日は途中で雨に降られた。角筈《つのはず》に住む水彩画家は、私と前後して信州へ入った人だが、一年ばかりで小諸を引揚げて来た。君は仏蘭西《フランス》へ再度の渡航を終えて、新たに画室を構えていた。そこへ私が訪ねて行って、それから大久保辺を尋ね歩いた。
 郊外は開け始める頃であった。そこここの樹木の間には、新しい家屋が光って見えた。一軒、西大久保の植木屋の地内に、往来に沿うて新築中の平屋があったが、それが私の眼に着いた。まだ壁の下塗もしてない位で、大工が入って働いている最中。三人の子供を連れて来てここで仕事をするとしては、あまりに狭過ぎるとは思ったが、いかにも周囲《まわり》が気に入った。で、二度ほど足を運んで、結局工事の出来上るまで待つという約束で、そこを借りることに決めた。
 この話を持って、小諸をさして帰って行く頃は、上州辺は最早《もう》梅に遅い位であった。山一つ越えると高原の上はまだ冬の光景《ありさま》で、それから傾斜を下るに従って、いくらかずつ温暖《あたたか》い方へ向っていた。小諸へ近づけば近づくほど、岩石の多い谷間《たにあい》には浅々と麦の緑を見出《みいだ》すことが出来た。浅間、黒斑《くろふ》、その他の連山にはまだ白い雪があったが、急にそこいらは眼が覚めたようで、何もかも蘇生《そせい》の力に満ち溢《あふ》れていた。五箇月の長い冬籠《ふゆごもり》をしたものでなければ、殆《ほと》んど想像も出来ないようなこの嬉しい心地《ここち》は、やがて、私を小諸の家へ急がせた。
 漸《ようや》く春が来た。北側の草屋根の上にはまだ消え残った雪があったが、それが雨垂のように軒をつたって、溶け始めていた。子供等は私の帰りを待|侘《わ》びて、前の日から汽車の着く度に、停車場まで迎えに出たという。東京の話は家のものの心を励ました。私は郊外に見つけて来た家のことを言って、第一土地の閑静なこと、樹木の多いこと、地味の好いことなどを話して聞かせた。女子供には、東京へ出られるということが何よりも嬉しいという風で、上京の日は私よりも反って家内の方に待遠しかったのである。その晩、お房やお菊は寝る前に私の側へ来て戯れた。私は久し振で子供を相手にした。
「皆な温順《おとな》しくしていたかネ」と私が言った。「サ――二人ともそこへ並んで御覧」
 二人の娘は喜びながら私の前に立った。
「いいかね。房《ふう》ちゃんが一号で、菊《きい》ちゃんが二号で、繁ちゃんが三号だぜ」
「父さん、房ちゃんが一号?」と姉の方が聞いた。
「ああ、お前が一号で、菊ちゃんが二号だ。父さんが呼んだら、返事をするんだよ――そら、やるぜ」
 二人の娘は嬉しそうに顔を見合せた。
「一号」
「ハイ」と妹の方が敏捷《すばしこ》く答えた。
「菊ちゃんが一号じゃないよ、房ちゃんが一号だよ」と姉は妹をつかまえて言った。
 大騒ぎに成った。二人の娘は部屋中を躍《おど》って歩いた。
「へい、三号を見て下さい」
 と山浦というところから奉公に来ている下女も、そこへお繁を抱いて来て見せた。厚着をさせてある頃で、この末の児はまだ匍《は》いもしなかったが、チョチチョチ位は出来た。どうやら首のすわりもシッカリして来た。家《うち》の内《なか》での愛嬌《あいきょう》者に成っている。
「よし。よし。さあもう、それでいいから、皆な行ってお休み」
 こう私が言ったので、お房もお菊も母の方へ行った。家内は一人ずつ寝巻に着|更《か》えさせた。下女はまた、人形でも抱くようにして、柔軟《やわらか》なお繁の頬《ほお》へ自分の紅い頬を押宛てていた。
 やがて三人の子供は枕を並べて眠った。急に家の内はシンカンとして来た。家内なぞは、子供の眠っている間が僅かに極楽だと言い言いしている。
「一号、二号、三号……」
 この自分から言出した串談《じょうだん》には、私は笑えなくなった。三人の子供ですらこの通り私の家では持余している。今からこんなに生れて、このうえ出来たらどうしようと思った。私の母は八人子供を産んでいる。家内の方にはまた兄妹《きょうだい》が十人あった。その総領の姉は今五人子持で、次の姉は六人子持だ。何方《どちら》を向いても、子供の多い系統から来ている。
 翌日、私は学校の方へ形式ばかりの辞表を出した。その日から私の家ではそろそろ引越の仕度に取掛った。よく大久保の噂《うわさ》が出た。雨でも降れば壁が乾くまいとか、天気に成れば何程《どれほど》工事が進んだろうとか、毎日言い合った。私達の心の内には、新規に家の形が出来て、それが日に日に住まわれるように成って行くような気がした。
 二週間ばかり経ったところで、大久保の植木屋から手紙を受取った。見ると、月の末まで待たなければならなかった。こうなると一度|纏《まと》めた道具のうちを復た解《ほど》く必要がある位で、ある荷物は会社に依頼して先へ送り出した。私は本町の角にある茶店《ちゃてん》から、大きな茶箱を二つ求めて来て、書籍のたぐいはそれに詰めた。箪笥《たんす》でも、本箱でも、空虚《から》にして送らなければ壊《こわ》れて了うと言われた。この混雑の中で、幾度《いくたび》か町の人は私を引留めに来た。「夜逃げにでも逃げようかしらん」どうかすると私は家のものに向って、謔語《じょうだん》半分にこんなことを言うこともあった。あまりに長く世話に成り過ぎた、と私は思った。いざこの土地を見捨てて行くとなると、私達の生涯は深く根
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