が生えたように成っていた。とはいえ町の人は私の願を容《い》れてくれた。そして餞別《せんべつ》を集めたり、いろいろ世話をしたりしてくれた。日頃親しくして、「叔父さん」とか「叔母さん」とか互に言い合った近所の人達は、かわるがわる訪ねて来た。いよいよ出発の日が近づいた。三人の子供には何を着せて行こう、とこう家内はいろいろに気を揉んだ。「房《ふう》ちゃん、いらッしゃい、衣服《おべべ》を着て見ましょう――温順《おとな》しくしないと、東京へ連れて行きませんよ」と家内が言って、写真を映した時に一度着せたヨソイキの着物を取出した。それは袖口《そでぐち》を括《くく》って、お房の好きなリボンで結んである。お菊のためには黄八丈の着物を択ぶことにした。
「菊《きい》ちゃんの方は色が白いから、何を着ても似合う」
こう皆なが言い合った。
五月の朔日《ついたち》は幸に天気も好く、旅をするものに取って何よりの日和《ひより》だった。子供は近所の娘達に連れられて、先ず停車場を指《さ》して出掛けた。学校の小使が別れに来たから、この人には使用《つか》っていた鍬を置いて行くことにした。私は毎日通い慣れた道を相生町の方へとって、道普請の為に高く土を盛上げた停車場前まで行くと、そこで日頃懇意にした多勢の町の人達だの、学校の同僚だの、生徒だのに出逢った。そこまで追って来て、餞別のしるしと言って、物をくれる菓子屋、豆腐屋のかみさんなどもあった。同僚に親にしてもいいような年配の理学士があったが、この人は花の束にしたのを持って来て、私達の乗った汽車の窓へ入れてくれた。その日は牧野君も洋服姿でやって来て、それとなく見送ってくれた。
「困る。困る」
こう言って、お菊は泣出しそうに成った。この児は始めて汽車に乗ったので、急にそこいらの物が動き出した時は、私へしがみ付いた。
やがて、ウネウネと続いた草屋根、土壁、柿の梢《こずえ》、石垣の多い桑畑などは汽車の窓から消えた。小諸は最早見えなかった。
この旅には、私は山から種々ななものを運ぼうとする人であった。信州で生れた三人の子供は言うまでもなく、世帯の道具、衣類、それから毎日の暮し方まで、私は地方の生活をソックリ都会の方へ移して持って行こうとした。楊《やなぎ》、楓《かえで》、漆《うるし》、樺《かば》、楢《なら》、蘆《あし》などの生い茂る千曲川《ちくまがわ》一帯の沿岸の風俗、人情、そこで呼吸する山気、眼に映る日光の色まで――すべて、そういうものの記憶を私は自分と一緒に山から運んで行こうとした。
汽車が上州の平野へ下りた頃、私は窓から首を出して、もう一度山の方を見ようとした。浅間の煙は雲の影に成ってよく見えなかった。
高崎で乗換えてから、客が多かった。私なぞは立っていなければならない位で、子持がそこへ坐って了えば、子供の方は一人しか腰掛ける場処がなかった。お房とお菊はかわりばんこに腰掛けた。お繁はまた母に抱かれたまま泣出して、乳をあてがわれても、揺《ゆす》られても、どうしても泣止まなかった。何故こんなに泣くんだろう、と家内はもう持余して了った。仕方なしに、お繁を負《おぶ》って、窓の側で起ったり坐ったりした。
四時頃に、私達五人は新宿の停車場へ着いた。例の仕事が出来上るまでは、質素にして暮さなければならないと言うので、下女も連れなかった。お房やお菊は元気で、私達に連れられて大久保の方へ歩いたが、お繁の方は酷《ひど》く旅に萎《しお》れた様子で、母の背中に頭を持たせ掛けたまま気抜けのしたような眼付をしていた。
時々家内は立止って、郊外のありさまを眺めながら、
「繁ちゃん、御覧」
と背中に居る子供に言って聞かせた。お繁は何を見ようともしなかった。
私達親子のものが移ろうとした新しい巣は、着いて見ると、漸《ようやく》く工事を終ったばかりで、まだ大工が一人二人入って、そこここを補《つくろ》っているところであった。植木屋の亭主は早速私を迎えて、沢山盆栽などの置並べてある庭の内で、思いの外壁の乾きが遅かったことなぞを言った。庭に出て水を汲んでいた娘は、家内や子供に会釈しながら、盆栽|棚《だな》の間を通り過ぎた。めずらしそうに私達の様子を眺める人もあった。この広い、掃除の届いた庭の内には、植木屋の母屋《もや》をはじめ、まだ他に借屋建《しゃくやだて》の家が二軒もあって、それが私達の住まおうとする家と、樹木を隔てて相対していた。とにかく、私は植木屋の住居《すまい》を一間だけ借りて、そこで二三日の間待つことにした。
「房ちゃんも、菊ちゃんも、花を採るんじゃないよ――叔父さんに叱られるよ」
と私は二人の子供に言い聞かせた。
日の暮れる頃、会社から来た一台の荷馬車が植木屋の門前で停った。私達は先に送った荷物と一緒に大久保へ着いたことに成った。この混雑の中で、お繁は肩掛に包まれたまま、取散らした手荷物などの中に寝かされていた。稀《たま》にアヤされても、笑いもしなかった。その晩は、遅くなって、一同夕飯にありついた。
翌日は、荷物の取片付に掛るやら、尋ねて来る客があるやらで、ゴタゴタした。お繁は疲れて眠り勝であったが、どうかすると力のない眼付をしながら、小さな胸を突出すような真似《まね》をして見せる。この児はまだ「うま、うま」位しか言えない。抱かれたくて、あんな真似をするのだろうと、私達は解釈した。で、成るべく顔を見せないようにした。温順《おとな》しく寝ているのを好い事にして、いくらか熱のあったのも気に留めなかった。思うように子供を看《み》ることも出来なかったのである。
大久保へ来て三日目に、私は先ず新しい住居《すまい》へ移って、四日目には家のものを移らせた。新築した家屋のにおいは、不健康な壁の湿気に混って、何となく気を沈着《おちつ》かせなかった。壁はまだ乾かず、戸棚へは物も入れずにある。唐紙は取除《とりはず》したまま。種々なことを山の上から想像して来た家内には、この住居はあまりに狭かった。
「家賃を考えて御覧な」
と私は笑った。
歩調を揃《そろ》えた靴の音が起った。カアキイ色の服を着けた新兵はゾロゾロ窓の側を通った。金目垣《かなめがき》一つ隔てた外は直ぐ往来で、暗い土塵《つちぼこり》が家の内までも入って来た。
お房は物に臆しない方の娘で、誰とでも遊んだから、この住居へ移った頃には最早《もう》近所の娘の中に交っていた。そして、小諸|訛《なまり》の手毬歌《てまりうた》なぞを歌って聞かせた。短い着物に細帯ではおかしいほど背丈の延びた学校通いの姉さん達を始め、五つ六つ位の年頃の娘が、夕方に成ると、多勢家の周囲《まわり》へ集った。お菊はなかなか用心深くて、庭の樹の下なぞに独《ひと》りで遊んでいる方で、容易に他の子供と馴染《なじ》もうともしなかった。
「房ちゃん、大手のお湯《ゆう》へ行きましょう」
こうお菊は母に連れられて入浴に出掛ける時に言った。この娘は小諸の湯屋へ行くつもりでいた。
漸く家の内がすこし片付いて、これから仕事も出来ると思う頃、末の児は意外な発熱の状態《ありさま》に陥入った。新開地のことで、近くには小児科の医者も無かった。村医者があると聞いて、来て診《み》て貰《もら》ったが、子供を扱いつけたことが無いと見えて、とかくハッキリしたことも言ってくれなかった。この医者を信ずる信じないで、家では論が起った。生憎《あいにく》また母の乳は薄くなった。私は町へ出て、コンデンス・ミルクを売る店を探したが、それすらも見当らなかった。その晩は牛込に住む友達の家に会があった。私は途中でミルクを買いしなこの友達にも逢って、小児科医の心あたりを聞いて見る積りであった。村医者は二度も三度も診に来た。最早駄目かしらん、こんな気が起って来た。
「最後の晩餐《ばんさん》!」
と、不図《ふと》、私は坂の途中で鷲《わし》印のミルク罐《かん》を買いながら思った。牛込の家には、種々な知人が集っていた。そこで戦地から帰って来た友達にも逢った。君は、私がまだ信州に居た頃、従軍記者として出掛けたのであった。
「電話で一つ聞き合わせてあげましょう。皆川という医学士が大学の方に居ますが、この人は小児科専門ですから」
こう主人は気の毒がって言ってくれた。
丁度戸山には赤十字社の仮病院が設けてある時であった。皆川医学士が、臨時の手伝いとして通っていると言って、戸山からわざわざ私の家へ見舞に寄ってくれた頃は、お繁は最早《もう》床の上に冷たく成っていた。
東京の郊外へ着く早々、私達は林の中にでも住むような便りなさを感じた。同時に、小諸でよく子供の面倒を見てくれた近所のシッカリした「叔母さん」達を恋しく思った。あのお繁が胸を突出すような真似をして見せたのは、漸く私達にその意味が解った。口のきけない子供は、死んでから苦痛を訴え始めた。
今更仕方がなかった。そして口説《くど》いてなぞいる場合では無い、と私は思った。幼児《おさなご》のことだから、埋葬の準備も成るべく省くことにして、医者の診断書を貰うことだの、警察や村役場へ届けることだの、近くにある寺の墓地を買うことだの、大抵のことは自分で仕末した。棺も、葬儀社の手にかけなかった。小諸から書籍を詰めて来た茶箱を削って貰って、小さな棺に造らせて、その中へお繁の亡骸《なきがら》を納めた。
「房《ふう》ちゃん、来て御覧なさい――繁ちゃんは死んじゃったんですよ」
こう家内が言った。
「菊《きい》ちゃん、いらッしゃい」
とお房は妹を手招きして呼んで、やがて棺の中に眠るようなお繁の死顔を覗《のぞ》きに行った。急に二人の子供は噴飯《ふきだ》した。
「死んじゃったのよ、死んじゃったのよ」
とお菊は訳も解らずに母の口真似をして、棺の周囲《まわり》を笑いながら踊って歩いた。
「馬鹿だねえ……御覧なさいな、繁ちゃんは最早ノノサンに成ったんじゃ有りませんか……」
と復た母に言われて、お房は不思議そうに、泣|腫《は》らしている母の顔を覗き込んだ。丁度そこへ家内の妹も学校の方からやって来たが、この有様を見ると、直に泣出した。終《しまい》にはお房も悲しく成ったと見えて、母や叔母と一緒に成って泣いた。
蝋燭《ろうそく》の火が赤く点《とぼ》った。
「兎の巾着でも入れてやりナ」
と私が言ったので、家内や妹は棺の周囲へ集って、毛糸の巾着の外に、帽子、玩具《おもちゃ》、それから五月の花のたぐいで、死んだ子供の骸《から》を飾った。
墓地は大久保の長光寺と言って鉄道の線路に近いところにあった。日が暮れてから、植木屋の亭主に手伝って貰って、私はこの大屋さんと二人で棺を提げて行った。同じ庭の内の借家に住む二人の「叔父さん」、それから向《むかい》の農家の人などは、提灯《ちょうちん》を持って見送ってくれた。この粗末な葬式を済ました後で、親戚や友達に知らせた。
こうして私の家には小さな新しい位牌《いはい》が一つ出来た。そのかわり、お繁の死は、私達の生活の重荷をいくらか軽くさせた形であった。まだお房も居るし、お菊も居る――二人もあれば、子供は沢山だ、と私は思った。
どうかすると私は串戯《じょうだん》半分に家のものに向って、
「お繁が死んでくれて、大《おおい》に難有《ありがた》かった」
こんなことを言うこともあった。私は唯自分の仕事を完成することにのみ心を砕いていた。
「子供なぞはどうでも可い」
多忙《いそが》しい時には、こんな気も起った。何を犠牲にしても、私は行けるところまで行って見ようと考えたのである。
郊外には、旧い大久保のまだ沢山残っている頃であった。仕事に疲れると、よく私は家を飛出して、そこいらへ気息《いき》を吐《つ》きに行った。大久保全村が私には大きな花園のような思をさせた。激しい気候を相手にする山の上の農夫に比べると、この空の明るい、土地の平坦《たいら》な、柔い雨の降るところで働くことの出来る人々は、ある一種の園丁《にわづくり》のように私の眼に映った。角筈に住む水彩画家の風景画に私は到る処で出逢った。
「房ちゃん、いらッしゃい――懐古園へ花採
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