てくれます。今日は二人に、浴衣《ゆかた》を一枚ズツ奢《おご》ってやることにしました」
「それは大悦《おおよろこ》びだろう。お前のとこでも、子が幾人《いくたり》も死んで、随分不幸つづきだったナ。しかし世の中のことは、何でも深く考えては不可《いけない》。淡泊に限る。乃公《おれ》はその主義サ――家内のことでも――子供のことでも――自分のことでも」
 こんな調子で、あだかも繁華な街衢《ちまた》を歩く人が、右に往き、左に往きして、他《ひと》を避けようとするように、実はなるべく弟に触るまい触るまいとしていた。彼は弟の手を執《と》って過去の辛酸を語ろうともしなければ、留守中|何程《どれほど》の迷惑を掛けたろうと、深くその事を詫《わ》びるでもなかった。唯《ただ》、旧家の家長が目下の者に対するような風で、冷飯《ひやめし》の三吉と向い合っていた。
 金の話は余計に兄の矜持《ほこり》を傷《きずつ》けた。病身な宗蔵――三吉などが「宗さん、宗さん」と言っている兄――この人は今だに他所《よそ》へ預けられていて、実が世話すべき家族の一人ではあるが、その方へも三吉には金を出させていた。種々《いろいろ》余分な工面もさせた上に、復《ま》た兄は金策を命じに来た。
「実《じつ》はNさんのところから、四十円ばかり借りた。いずれ三吉の方で返しますから、と言って、時に借りて来た。これは是非お前に造って貰わにゃ成らん」
 当惑顔な弟が何か言おうとしたのを実は遮《さえぎ》った。彼は細《こまか》く書いた物を取出した。これだけの家具を四十円で引取ると思ってくれ、と言出した。それには、箪笥《たんす》、膳《ぜん》、敷物、巻煙草入、その他徳利、盃洗《はいせん》などとしてあった。
「頼む」
 と兄は無理にも承諾させて、そこそこに弟の家を出た。
「留守中は御苦労だったとか、何とか……それでも一言ぐらい挨拶《あいさつ》が有りそうなものだナア」
 こう三吉は、独語《ひとりごと》のように言って、嘆息した。尤《もっと》も、兄が言えないことは、三吉も承知していた。


 お俊はお延と一緒に、風呂敷包を小脇《こわき》に擁《かか》えながら帰った。包の中には、ある呉服屋から求めて来た反物《たんもの》が有った。
「叔父さんに買って頂いたのを、お目に懸《か》けましょう」
 と娘達は言い合って、流行の浴衣地《ゆかたじ》を叔父の前に置いた。目うつりのす
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