家(下巻)
島崎藤村

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)直《じか》に

|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)最早|疾《とっく》に

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、底本のページと行数)
(例)※[#「※」は「まいらせそろ」の略記号、58−11]
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        一

 橋本の正太は、叔父を訪ねようとして、両側に樹木の多い郊外の道路へ出た。
 叔父の家は広い植木屋の地内で、金目垣《かなめがき》一つ隔てて、直《じか》にその道路へ接したような位置にある。垣根の側《わき》には、細い乾いた溝《みぞ》がある。人通りの少い、真空のように静かな初夏の昼過で、荷車の音もしなかった。垣根に近い窓のところからは、叔母のお雪が顔を出して、格子に取縋《とりすが》りながら屋外《そと》の方を眺《なが》めていた。
 正太は窓の下に立った。丁度その家の前に、五歳《いつつ》ばかりに成る児《こ》が余念もなく遊んでいた。
「叔母さん、菊《きい》ちゃんのお友達?」
 心|易《やす》い調子で、正太はそこに立ったままお雪に尋ねてみた。子供は、知らない大人に見られることを羞《は》じるという風であったが、馳出《かけだ》そうともしなかった。
 短い着物に細帯を巻付けたこの娘の様子は、同じ年頃のお菊のことを思出させた。
 お雪が夫と一緒に、三人の娘を引連れ、遠く山の上から都会の方へ移った時は、新しい家の楽みを想像して来たものであった。引越の混雑《ごたごた》の後で、三番目のお繁――まだ誕生を済ましたばかりのが亡くなった。丁度それから一年過ぎた。復《ま》た二番目のお菊が亡くなった。あのお菊が小さな下駄を穿《は》いて、好きな唱歌を歌って歩くような姿は、最早家の周囲《まわり》に見られなかった。
 姉のお房とは違い、お菊の方は遊友達も少なかった。「菊ちゃん、お遊びなさいな」と言って、よく誘いに来たのはこの近所の娘である。
 道路には日があたっていた。新緑の反射は人の頭脳《あたま》の内部《なか》までも入って来た。明るい光と、悲哀《かなしみ》とで、お雪はすこし逆上《のぼせ》るような眼付をした。
「まあ、正太さん、お上んなすって下さい」
 こう叔母に言われて、正太は垣根越しに家《うち》の内《なか》を覗《のぞ》いて見た。
「叔父さんは?」
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