「叔母さん、御郷里《おくに》へ御帰り?……御取込のところですネ」
こう言って、翌朝《よくあさ》正太が訪ねて来た頃は、手荷物だの、子供の着物だのが、部屋中ごちゃごちゃ散乱《とりちら》してあった。
「正太さん、御免なさいまし」とお雪は帯を締めながら挨拶《あいさつ》した。
「どれ、子供をここへ連れて来て見ナ」
と三吉に言われて、下婢はそこに寝かしてあった種夫を抱いて来た。
「余程気をつけて連れて行かないと、不可《いけない》ぜ」
「よくああして温順《おとな》しく寝ていたものだ」と正太も言った。
「まだ、君、毎日|浣腸《かんちょう》してますよ。そうしなけりゃ通じが無い……玩具《おもちゃ》でも宛行《あてが》って置こうものなら、半日でも黙って寝ています。房ちゃん達から見ると、ずっとこの児は弱い」
「これで御郷里《おくに》の方へでも連れていらしッたら、また壮健《じょうぶ》に成るかも知れません」
「まあ、一夏も向《むこう》に居て来るんです」
「真実《ほんと》に叔母さんも御苦労様――女の旅は容易じゃ有りませんネ」
お雪は二人の話を聞きながら、白足袋《しろたび》を穿《は》いた。「私が留守に成ったら、父さんも困るでしょうから、お俊ちゃんにでも来ていて頂くつもりです」と彼女は言った。そのうちに仕度が出来た。お雪は夫や正太と一緒に旅立の茶を飲んだ。
「種ちゃんにも、一ぱい飲まして」
とお雪は懐《ふところ》をひろげて、暗い色の乳首を子供の口へ宛行《あてが》った。お延は車宿を指して走って行った。
甥《おい》に留守を頼んで置いて、一寸三吉は新宿の停車場《ステーション》まで妻子を送りに行った。帰って見ると、正太は用事ありげに叔父を待受けていた。
「正太さん、君はまだ朝飯前じゃなかったんですか。僕は言うのを忘れた」
「いえ、早く済まして来ました」
「めずらしいネ」
「私のような寝坊ですけれど、めずらしく早く起きました。下宿の膳《ぜん》に対《むか》って、つくづく今朝は考えました……なにしろ一年の余にも成るのに、未だこうしてブラブラしているんですからネ……」
正太は激昂《げっこう》するように笑った。暗い前途にいくらかの明りを見つけたと言出した。その時彼は叔父の思惑《おもわく》を憚《はばか》るという風であったが、やや躊躇《ちゅうちょ》した後で、自分の行くべき道は兜町《かぶとちょう》の方角より外
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