うなところへ行きたかった。翌朝《よくあさ》早く、彼は磯辺の温泉宿を指して発《た》って行った。
「あれ、叔父さんは最早《もう》帰って御出《おいで》たそうな」
とお延は入口の庭に立って言った。
お雪が生家《さと》の方で老祖母《おばあさん》の死去したという報知《しらせ》は、旅にある三吉を驚かした。二三日しか彼は磯辺に逗留《とうりゅう》しなかった。電報を受取ると直ぐ急いで家の方へ引返して来た。
「種ちゃん、父さんの御帰りだよ」とお雪も乳呑児を抱きながら、夫を迎えた。
「よく、こんなに早く帰られましたネ、皆な貴方のことを心配しましたよ」
「道理で、森彦さんからも見舞の電報を寄した。どうも変だと思った――俺は又、お前の方を案じていた」
ホッと溜息《ためいき》を吐《つ》いて三吉は老祖母の話に移った。
この老祖母の死は、今更のように名倉《なくら》の大きな家族のことを思わせた。別に竈《かまど》を持った孫娘だけでも二人ある。まだ修業中の孫から、多勢の曾孫《ひいまご》を加えたら、余程の人数に成る。お雪ばかりは、その中でも、遠く嫁《かたづ》いて来た方であるが、この葬式は是非とも見送りたかった。三吉は又、種夫に下婢《おんな》を附けて一緒に遣るつもりで帰って来た。
「さあ、今度はお前が出掛ける番だ」と三吉が言った。「でも、俺の仕事が済んだ後で好かった……買う物があったら買ったら可《よ》かろう。何か土産《みやげ》も用意して行かんけりゃ成るまい」
「土産なんか要《い》りません。一々持って行った日にゃ大変です」
お雪は妹だの、姪だのを数えてみた。
久し振で生家《さと》へ帰る妻の為にと思って、三吉は名倉の娘達の許《もと》へ何か荷物に成らない物を見立てようとした。旅費を用意したり、買物したりして、夫が町から戻って来る頃は、妻は旅仕度に忙しかった。
あわただしい中にも、種々なことがお雪の胸の中を往来した。長い年月の間、夫と艱難《かんなん》を共にした後で、彼女は自分の生家を見に行く人である。今まで殆んど出なかった家を出、遠く夫を離れて、両親や姉妹《きょうだい》やそれから友達などと一緒に成りに行く人である。光る帆、動揺する波、鴎《かもめ》の鳴声……可懐《なつか》しいものは故郷の海ばかりでは無かった。曾《かつ》て、彼女が心を許した勉《つとむ》――その人を自分の妹の夫としても見に行く人である。
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