んと》に、何物《なんに》も食べたがらないのが一番心配です」
「ねえ、房ちゃん、御医者様の言うことを聞いて、早く快《よ》く成ろうねえ。そうすると、父さんが房ちゃんに好く似合うような袴を買ってくれるよ」
 こう父に言われて、お房は唯|黙頭《うなず》いた。やがて復《ま》た横に成った。
「ああ、父さんも疲れた」と三吉は子供の側へ身体《からだ》を投出すようにした。「菊ちゃんが居なくなって、急に家の内が寂しく成ったネ。ホラ、父さんが仕事をしてる時、机の前に二人並べて置いて、『父さんが好きか、母さんが好きか』と聞くと、房ちゃんは直に『父さん』と言うし――菊ちゃんの方は暫時《しばらく》考えていて、『父さんと母さんと両方』だトサ――あれで、菊ちゃんも、ナカナカ外交家だったネ」
「何方《どっち》が外交家だか知れやしない」とお雪は軽く笑った。
 病児を慰めようとして、三吉は種々なことを持出した。山に居る頃はお房もよく歌った兎《うさぎ》の歌のことや、それからあの山の上の家で、居睡《いねむり》してはよく叱られた下婢《おんな》が蛙《かわず》の話をしたことなぞを言出した。七年の長い田舎《いなか》生活の間、あの石垣の多い傾斜の方で、毎年のように旅の思をさせた蛙の声は、まだ三吉の耳にあった。それを子供に真似《まね》て聞かせた。
「ヒョイヒョイヒョイヒョイヒョイ……グッグッ……グッグッ……」
「いやあな父さん」
 とお房は寝ながら父の方を見て言った。自然と出て来た微笑《えみ》は僅《わず》かにその口唇《くちびる》に上った。
「房ちゃん、母さんが好い物を造《こしら》えて来ましたよ――すこし飲んでみておくれな」
 とお雪は夫が買って来たミルク・フッドを茶碗《ちゃわん》に溶かして、匙《さじ》を添えて持って来た。子供は香ばしそうな飲料《のみもの》を一寸|味《あじわ》ったばかりで、余《あと》は口を着けようともしなかった。その晩から、お房は一層激しい発熱の状態《ありさま》に陥った。何となくこの児の身体には異状が起って来た。
「真実《ほんと》に、串談《じょうだん》じゃ無いぜ」
 と三吉は物に襲われるような眼付をして、いかにしてもお房ばかりは救いたいということを妻に話した。不思議な恐怖は三吉の身体を通過ぎた。お雪も碌《ろく》に眠られなかった。
 翌々日、お房は病院の方へ送られることに成った。病み震えている娘を抱起すよう
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