た。
「そんなに君は困るんですか」と三吉は正太の顔を見た。「郷里《くに》の方からでも、すこし兵糧《ひょうろう》を取寄せたら可いじゃ有りませんか」
「そこです」と正太は切ないという容子《ようす》をして、「なるべく郷里へは言って遣りたくない……ああして、店は店で、若い者が堅めていてくれるんですからネ」
 萎《しお》れた正太を見ると、何とかして三吉の方ではこの甥の銷沈《しょうちん》した意気を引立たせたく思った。彼はいくらかを正太の前に置いた。それがどういう遣《つか》い道の金であるとも、深く鑿《ほ》って聞かなかった。
 やがて正太は自分の下宿を指して帰って行った。後で、お雪は台所の方を済まして出て来て、夫と一緒に釣洋燈《つりランプ》の前に立った。
「正太さんは、未だ、何事《なんに》も為《な》すっていらッしゃらないんでしょうか」
「どうも思わしい仕事が無さそうだ。石炭をやってみたいとか、何とか、来る度に話が変ってる。何卒《どうか》して早く手足を延ばすようにして遣りたいものだネ――あの人も、橋本の若旦那《わかだんな》として置けば、立派なものだが――」
 こういう言葉を交換《とりかわ》して置いて、夫婦は同じようにお房の様子を見に行った。


 お房の発熱は幾日となく続いた。庭に向いた部屋へ子供の寝床を敷いて、その枕頭《まくらもと》へお雪は薬の罎《びん》を運んだ。鞠《まり》だの、キシャゴだの、毛糸の巾着《きんちゃく》だの、それから娘の好きな人形なぞも、運んで行った。お房は静止《じっと》していなかった。臥《ね》たり起きたりした。
 ある日、三吉は町から買物して、子供の方へ戻って来た。父の帰りと聞いて、お房は寝衣《ねまき》のまま、床の上に起直った。そして、家の周囲《まわり》に元気よく遊んでいる近所の娘達を羨《うらや》むような様子して、子供らしい眼付で父の方を見た。
「房ちゃん、御土産《おみや》が有るぜ」
 と三吉は美しい色のリボンをそこへ取出した。彼は、食のすすまない子供の為《ため》にと思って、ミルク・フッドなども買求めて来た。
「へえ、こんな好いのをお父さんに買って頂いたの」
 とお雪もそこへ来て言って、そのリボンを子供に結んでみせた。
「房ちゃんは何か食べたかネ」と三吉は妻に尋ねた。
「お昼飯《ひる》に、お粥《かゆ》をホンのぽっちり――牛乳は厭《いや》だって飲みませんし――真実《ほ
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