流浪はそれから始まった。横浜あたりで逢《あ》ったある少婦《おんな》から今の病気を受けたという彼の血気|壮《さか》んな時代――その頃から、不自由な手足を提げて再び身内の懐《ふところ》へ帰って来るまで、その間どういう暗い生涯を送ったかということは、兄弟ですらよく知らない。母がまだ壮健《たっしゃ》でいる時、「宗蔵の身体には梅の花が咲いた」などと戯れて、何卒《どうか》して宗蔵の面倒を見て死にたい、と言いとおした。彼も今では、「三吉さん」とか、「オイ、君」とか話しかけて、弟より外に心を訴えるものの無い人である。
 三吉が帰った翌日《あくるひ》、宗蔵は一夏の間の病苦を聞いて貰おうと思って、先ず弟の旅の獲物《えもの》から尋ねた。三吉は橋本の表座敷で木曾川の音を聞きながら書いた物を出して、宗蔵に見せた。一くさり、宗蔵は声を出して読んでみた。そして、「兄弟中で文学の解るものは、君と僕だけだよ」という心地《こころもち》を眼で言わせて、やがて部屋の片隅《かたすみ》に置いてある本箱の方へ骨と皮ばかりのような足を運んだ。
 床の間には、父忠寛と同時代の人で、しかも同村に生れた画家《えかき》の遺《のこ》した筆が古風な軸に成って掛っている。鳥を飼う支那風の人物の画である。その質素な色彩《いろどり》といかにも余念なく餌をくれている人物の容子《ようす》とは、田舎にあった小泉の家に適《ふさ》わしいものである。
 宗蔵は三吉が留守の間に書溜《かきた》めた和歌の草稿を取出して、それを弟の前に展《ひろ》げた。
「三吉さんとはすこし時代が違うが、僕はまた一夏かかって、こういうものを作りましたよ。一つ批評して貰おう。君は木曾のような涼しい処に居たから好いサ――僕のことを考えてみ給え、こんな蒸暑い座敷で、汗をダラダラ流して……今年の夏は苦しかったからね」
 こう言って、自分の書いた歌を弟に読み聞かせた。三吉は、この兄の歌そのものより、箸《はし》も持てないような手で筆を持添えて、それを口に銜《くわ》えて、ぶるぶる震えてまでも猶《なお》腹《おなか》の中にあることを言表わそうとしたその労苦を思いやった。廃残の生涯とは言いながら、何か為《せ》ずには宗蔵もいられなかった。彼は病人に似合わない精力を有《も》っていた。手足は最早枯れかかって来ても、胴のあたりは大木の幹のように強かった。病気しても人一倍食うという宗蔵の憂愁《うれい》を遣るものは、僅かにこの和歌である。読み聞かせているうちに、痛憤とも、悔悟とも、冷笑とも、名の付けようの無い光を帯びた彼の眼から――ワンと口を開いたような大きな眼から、絶間《とめど》もなく涙が流れて来た。


「つくづく君の留守に考えたよ」と宗蔵は手拭《てぬぐい》を取出して、汗でも出たように顔中|拭廻《ふきまわ》した。「今年の夏ほど僕も種々《いろいろ》なことを思ったことはないよ。アア」
「そんなに苦しかったんですかネ」と三吉も宗蔵の顔を眺《なが》めた。「木曾に居ても随分暑い日は有りました――東京から見ると朝晩は大変な相違《ちがい》でしたが」
「いや、暑いにも何にも。加《おまけ》に風通しは悪いと来てる。僕なぞはあの窓のところに横に成ってサ、こう熟《じっ》と身体を動かさずにいたこともあった。そうすると、君、阿爺《おやじ》のことが胸に浮んで来る……母親《おっか》さんのことも出て来る……」
 冷い壁の下の方へ寄せて、隅《すみ》のところに小窓が切ってある。その小窓の側が宗蔵の病躯《びょうく》を横える場処である。
 宗蔵は言葉を継いだ。「阿爺と言えば、阿爺の書いた物を大分君の留守に調べたよ。それから僕の持ってる書籍《ほん》で、君の参考に成るだろうと思うようなものも、可成《かなり》有るよ。ああいうものはいずれ君の方へ遣ろう。君に見て貰おう」
 部屋の前は、山茶花《さざんか》などの植えてある狭い庭で、明けても暮れても宗蔵の眺める世界はこれより外は無かった。以前には稲垣あたりへよく話しに出掛けたものだが、それすら煩《うる》さく思うように成った。彼の許《ところ》へと言って別に訪ねて来る人も無かった。世間との交りは全く絶え果てた形である。
 町の響が聞える……
 宗蔵は聞入って、「三吉さん、君だからこんな話をするんだが、僕だって、君、そう皆なから厄介者に思われて、ここの家に居たく無い。ことしの夏は僕もつくづく考えた……三四日ばかり何物《なんに》も食わずにいてみたことも有った……しかし人間は妙なものさね、死のうと思ったッて時が来なければ容易に死ねる訳のものでは無いね……」
 こんなことを、さもさも尋常《あたりまえ》の話のように宗蔵が言出した。まるで茶でも飲み飯でも食うと同じように。
「どうかすると、『宗さんは御変りも御座いませんか』なんて、いかにも親切らしく言ってくれる人がある。あれは
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