《いたま》しい眼付をした。「僕に言わせると、ここの家の遣方《やりかた》は丁度あの文晁だ……皆な虚偽《うそ》だ……虚偽の生活《くらし》だ……」
 あまり宗蔵が無遠慮な悪口をつき始めたので、お倉は夫の重荷を憐《あわれ》むような口調に成って行った。
「そう宗さんのように坊さんみたようなこと言ったって……何も交際《つきあい》の道具ですもの……もともと有って始めた事業じゃないんですもの……贅沢だ、贅沢だと言う人から、すこし考えてくれなくちゃ――こんな御菜《おかず》じゃ食われないの、何のッて」と言ってお倉は三吉の方を見て、「ねえ三吉さん、兄さんにお刺身を取ったって、家の者に附けない時は有りまさあね」
「食わないのは、損だから……」
 こう宗蔵は捨鉢《すてばち》の本性を顕《あら》わして、左の手で巻煙草を吸付けた。
 その時、「三吉さん、御帰りだそうですね」と声を掛けながら、格子戸を開けて入って来た人があった。この人は稲垣と言って、近くに家を借りて、実の事業を助けている。
「今ね、家へ帰って、飯を一ぱいやってそれから出て来ました」と稲垣は煙草入を取出した。「三吉さんが御帰りなすったと言うから、それじあ一つ見て来ようと思いまして――今日は工場へ行く、銀行を廻るネ、大多忙《おおいそがし》」
「どうも毎日御苦労様で御座います」とお倉が言う。
「いえ、姉さんの前ですけれど」と稲垣は元気よく、「これで車が一つガタリと動いて御覧なさい、それこそ大変な話ですぜ――万や二万の話じゃ有りませんぜ。私なぞは、どうお金を使用《つか》おうかと思って、今からそれを心配してる」
「真実《ほんと》に稲垣さんは御話がウマイから」とお倉は笑った。
「まあ、君なぞはそんな夢を見ていたまえ」と宗蔵も笑って、「時に、稲垣君、この頃はエライ芝居を打ったネ」
「え……八王子の……あの話は最早《もう》しッこなし」と稲垣は手を振る。
「実は、今、あの話を三吉さんにしましたところですよ」とお倉は力を入れて、「何卒《どうぞ》まあ事業《しごと》の方も好い具合にまいりますと……」
「姉さん、そんな御心配は……決して……実兄さんという人がちゃんと付いてます」
 この稲垣の調子は、何処《どこ》までも実に信頼しているように聞えた。それにお倉は稍々《やや》力を得た。
 娘のお俊は奥座敷の方へ行って独《ひと》りで何かしていたが、その時母の傍へ来た。この娘は、髪も未だそう黒くならない年頃で、鬢《びん》のあたりは殊《こと》に薄かった。毎朝|美男葛《びなんかずら》で梳付《ときつ》けて貰って、それから学校へ行き行きしていた。
「お俊ちゃん、毎晩画を御習いですか」と稲垣はお俊の方を見て、「此頃《こないだ》習ったのを見て、驚いちまいました。どうしてああウマく描けるんでしょう」
「可笑《おか》しいんですよ」とお倉も娘の顔を眺めながら、「田舎娘だなんて言われるのが、どの位厭だか知れません――それを言われようものなら、プリプリ怒って了います」
「よくッてよ」とお俊は母の身体を動《ゆす》ぶるようにする。
「私の許《とこ》の娘もね」と稲垣はそれを言出さずにいられなかった。「お俊ちゃんが画をお習いなさるというから、西洋音楽でも習わせようかと思いまして……ピアノでも……ええ、三味線《しゃみせん》や踊を仕込むよりもその方が何となく高尚ですから……」
 稲垣の話は毎時《いつでも》自分の娘のことに落ちて行った。それがこの人の癖であった。
「どれ程稲垣は娘が可愛いか知れない」と宗蔵は稲垣の出て行った後で言った。「あの男の御世辞と来たら、堪《こた》えられないようなことを言うが……しかし、正直な男サ」


 宗蔵と三吉との年齢《とし》の相違《ちがい》は、三吉と正太との相違であった。この兄弟の生涯は、喧嘩《けんか》と、食物《くいもの》の奪合と、山の中の荒い遊戯《あそび》とで始まったようなもので。実に引連れられて東京へ遊学に出た頃は、未だ互に小学校へ通う程の少年であった。丁度それは二番目の兄の森彦が山林事件の総代として始めて上京して、当時|流行《はや》った猟虎《らっこ》の帽子を冠りながら奔走した頃のことで。その後、宗蔵の方は学校からある紙問屋へ移った。そこに勤めている間、よく三吉も洗濯物を抱《かか》えて訪ねて行くと、盲目縞《めくらじま》の前垂を掛けた宗蔵がニコニコして出て来て、莚包《こもづつみ》の荷物の置いてある店の横で、互に蔵の壁に倚凭《よりかか》りながら、少年らしい言葉を取換《とりかわ》した。「宗様、宗様」と村中の者に言われて育って来た奉公人の眼中には、大店《おおだな》の番頭もあったものではなかった。何か気に喰《く》わぬことを言われた口惜《くやし》まぎれに、十露盤《そろばん》で番頭の頭をブン擲《なぐ》ったのは、宗蔵が年季奉公の最後の日であった。
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