家(上巻)
島崎藤村

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)昼飯《ひる》

|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)若|旦那《だんな》様

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   (数字は、底本のページと行数)
(例)※[#「※」は「○の中にナ」、82−15]
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        一

 橋本の家の台所では昼飯《ひる》の仕度に忙しかった。平素《ふだん》ですら男の奉公人だけでも、大番頭から小僧まで入れて、都合六人のものが口を預けている。そこへ東京からの客がある。家族を合せると、十三人の食う物は作らねばならぬ。三度々々この仕度をするのは、主婦のお種に取って、一仕事であった。とはいえ、こういう生活に慣れて来たお種は、娘や下婢《おんな》を相手にして、まめまめしく働いた。
 炉辺《ろばた》は広かった。その一部分は艶々《つやつや》と光る戸棚《とだな》や、清潔な板の間で、流許《ながしもと》で用意したものは直にそれを炉の方へ運ぶことが出来た。暗い屋根裏からは、煤《すす》けた竹筒の自在鍵《じざいかぎ》が釣るしてあって、その下で夏でも火が燃えた。この大きな、古風な、どこか厳《いかめ》しい屋造《やづくり》の内へ静かな光線を導くものは、高い明窓《あかりまど》で、その小障子の開いたところから青く透き徹《とお》るような空が見える。
「カルサン」という労働の袴《はかま》を着けた百姓が、裏の井戸から冷い水を汲《く》んで、流許へ担《かつ》いで来た。お種はこの隠居にも食わせることを忘れてはいなかった。
 お種は夫と一緒に都会の生活を送ったことも有り――娘のお仙が生れたのは丁度その東京時代であったが、こうして地方にも最早《もう》長いこと暮しているので、話す言葉が種々《いろいろ》に混って出て来る。
「お春や」とお種は下婢の名を呼んで尋ねてみた。「正太はどうしたろう」
「若|旦那《だんな》様かなし。あの山瀬へお出《いで》たぞなし」
 こう十七ばかりに成るお春が答えたが、その娘らしい頬《ほお》は何の意味もなく紅《あか》く成った。
「また御友達のところで話し込んでると見える」とお種は考え深い眼付をして、やがて娘のお仙の方を見て、「山瀬へ行くと、いつでも長いから、昼飯《ひる》には帰るまい――兄さんのお膳《ぜん》は別にして置けや」
 お仙は母の言うなりに従順《すなお》に動いた。最早|処女《おとめ》の盛りを思わせる年頃で、背は母よりも高い位であるが、子供の時分に一度|煩《わずら》ったことがあって、それから精神《こころ》の発育が遅れた。自然と親の側《そば》を離れることの出来ないものに成っている。お種は絶えず娘の保護を怠らないという風で、物を言付けるにも、なるべく静かな、解《わか》り易《やす》い調子で言って、無邪気な頭脳《あたま》の内部《なか》を混雑させまいとした。お種は又、娘の友達にもと思って、普通の下婢のようにはお春を取扱っていなかった。髪もお仙の結う度《たび》に結わせ、夜はお仙と同じ部屋に寝かしてやった。
 主人《あるじ》や客をはじめ、奉公人の膳が各自《めいめい》の順でそこへ並べられた。心の好いお仙は自分より年少《としした》の下婢の機嫌《きげん》をも損《そこ》ねまいとする風である。
 仕度の出来た頃、母はお春と一緒に働いている娘の有様を人形のように眺《なが》めながら、
「お仙や、仕度が出来ましたからね、御客様にそう言っていらっしゃい」
 と言われて、お仙はそれを告げに奥の部屋の方へ行った。


 東京からの客というは、お種が一番末の弟にあたる三吉と、ある知人《しりびと》の子息《むすこ》とであった。この子息の方は直樹と言って、中学へ通っている青年で、三吉のことを「兄さん、兄さん」と呼んでいる。都会で成長した直樹は、初めて旅らしい旅をして、初めて父母の故郷を見たと言っている。二人は橋本の家で一夏を送ろうとして来たのであった。
「御客様は炉辺がめずらしいそうですから、ここで一緒に頂きましょう」
 とお種はそこへ来て膳に就《つ》いた夫の達雄に言った。三吉、直樹の二人もその傍に古風な膳を控えた。
「正太は?」
 と達雄は、そこに自分の子息が見えないのを物足らなく思うという風で、お種に聞いてみる。
「山瀬へ行ったそうですから、復《ま》た御呼ばれでしょう」
 こうお種は答えた。
 蠅《はえ》は多かった。やがてお春の給仕で、一同食事を始めた。御家大事と勤め顔な大番頭の嘉助親子、年若な幸作、その他手代小僧なども、旦那や御新造《ごしんぞ》の背後《うしろ》を通って、各自《めいめい》定まった席に着いた。奉公人の中には、二代、三代も前からこうして通って来るのも有る。この人達は、普通に雇い雇われる者とは違って、寧《むし》ろ主従の関係に
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