近かった。
裏の畠《はたけ》で働く百姓の隠居も、その時|手拭《てぬぐい》で足を拭《ふ》いて、板の間のところにカシコマった。
「さあ、やっとくれや」
と達雄は慰労《ねぎら》うように言った。隠居は幾度か御辞儀をして、「頂戴《ちょうだい》」と山盛の飯を押頂いて、それから皆なと一緒に食い始めた。
「三吉」とお種は弟の方を見て、「田舎《いなか》へ来て物を食べると、子供の時のことを思出すでしょう。直樹さんやお前さんに色々食べさせたい物が有るが、追々と御馳走《ごちそう》しますよ。お前さんが子供の時には、ソラ、赤い芋茎《ずいき》の御漬物《おつけもの》などが大好きで……今に吾家《うち》でも食べさせるぞや」
こんなことを言出したので、主人も客も楽しく笑いながら食った。
お種がここへ嫁《かたづ》いて来た頃は、三吉も郷里の方に居て、まだ極く幼少《おさな》かった。その頃は両親とも生きていて、老祖母《おばあ》さんまでも壮健《たっしゃ》で、古い大きな生家《さと》の建築物《たてもの》が焼けずに形を存していた。次第に弟達は東京の方へ引移って行った。こうして地方に残って居るものは、姉弟中でお種一人である。
「お春、お前は知るまいが」とお種は久し振で弟と一緒に成ったことを、下婢《おんな》にまで話さずにはいられなかった。「彼《あれ》が修業に出た時分は、旦那さんも私もやはり東京に居た頃で、丁度一年ばかり一緒に暮したが……あの頃は、お前、まだ彼が鼻洟《はな》を垂らしていたよ。どうだい、それがあんな男に成って訪ねて来た――えらいもんじゃないか」
お春は団扇《うちわ》で蠅を追いながら、皆なの顔を見比べて、娘らしく笑った。
旧《むかし》からの習慣として、あだかも茶席へでも行ったように、主人から奉公人まで自分々々の膳の上の仕末をした。食べ終ったものから順に茶碗《ちゃわん》や箸《はし》を拭いて、布巾《ふきん》をその上に掩《かぶ》せて、それから席を離れた。
この橋本の家は街道に近い町はずれの岡の上にあった。昼飯《ひる》の後、中学生の直樹は谷の向側にある親戚を訪ねようとして、勾配《こうばい》の急な崖《がけ》について、折れ曲った石段を降りて行った。
三吉は姉のお種に連れられて、めずらしそうに家の内部《なか》を見て廻った。
「三吉、ここへ来て見よや。これは私がお嫁に来る時に出来た部屋だ」
こう言ってお種が案内したは、奥座敷の横に建増した納戸《なんど》で、箪笥《たんす》だの、鏡台だの、その他|種々《いろいろ》な道具が置並べてある。襖《ふすま》には、亡《な》くなった橋本の老祖母さんの里方の縁続きにあたる歌人の短冊《たんざく》などが張付けてある。
「私が橋本へ来るに就いて、髪を結う部屋が無くては都合が悪かろうと言って、ここの老祖母さんが心配して造って下すった――老祖母さんはナカナカ届いた人でしたからね」とお種は説き聞かせた。
「へえ、その時分は姉さんも若かったんでしょうネ」と三吉が笑った。
「そりゃそうサ、お前さん――」と言いかけて、お種も笑って、「考えて御覧な――私がお嫁に来たのは、今のお仙より若い時なんですもの」
薬研《やげん》で物を刻《おろ》す音が壁に響いて来る。部屋の障子の開いたところから、斜《はす》に中の間の一部が見られる。そこには番頭や手代が集って、先祖からこの家に伝わった製薬の仕事を励んでいる。時々盛んな笑声も起る……
「何かまた嘉助が笑わしていると見えるわい」
と言いながら、お種は弟を導いて、奥座敷の暗い入口から炉辺の方へ出た。大きな看板の置いてある店の横を通り過ぎると、坪庭に向いた二間ばかりの表座敷がその隣にある。
三吉は眺め廻して、「心地《こころもち》の好い部屋だ――どうしても田舎の普請は違いますナア」
「ここをお前さん達に貸すわい」と姉が言った。「書籍《ほん》を読もうと、寝転《ねころ》ぼうと、どうなりと御勝手だ」
「姉さん、東京からこういうところへ来ると、夏のような気はしませんね」
「平素《ふだん》はこの部屋は空《あ》いてる。お客でもするとか、馬市でも立つとか、何か特別の場合でなければ使用《つか》わない。お前さんと、直樹さんと、正太と、三人ここに寝かそう」
「ア――木曾川の音がよく聞える」
三吉は耳を澄まして聞いた。
間もなくお種は弟を連れて、店先の庭の方へ降りた。正太が余暇に造ったという養鶏所だの、桑畠だのを見て、一廻りして裏口のところへ出ると、傾斜は幾層かの畠に成っている。そこから小山の上の方の耕された地所までも見上げることが出来る。
二人は石段を上った。掩《おお》い冠さったような葡萄棚《ぶどうだな》の下には、清水が溢《あふ》れ流れている。その横にある高い土蔵の壁は日をうけて白く光っている。百合《ゆり》の花の香《におい》もして来る。
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