姉は夏梨の棚の下に立って、弟の方を顧みながら、「この節は毎朝早く起きて、こうして畠の上の方まで見て廻る。一頃とは大違いで、床に就くようなことは無くなった――私も強くなったぞや」
「姉さんは何処《どこ》か悪かったんですか」と三吉は不審《いぶかし》そうに。
「ええ、持病で寝たり起きたりしてサ……」
「持病とは?」
 姉は返事に窮《こま》って、急に思い付いたように歩き出した。「まあ、病気の話なぞは止そう。それよりか私が丹精した畠でもお前さんに見て貰おう。御蔭で今年は野菜も好く出来ましたよ」


 野菜畠を見せたいというお種の後に随《つ》いて、弟も一緒に傾斜を上った。坂の途中を横に折れると、百合、豆などの種類が好く整理して植付けてある。青い暗い南瓜《かぼちゃ》棚の下を通って、二人は百姓の隠居の働いているところへ出た。
 石垣《いしがき》に近く、花園を歩むような楽しい小径《こみち》もあった。そこから谷底の町の一部を下瞰《みおろ》すことが出来る。
 お種は眺め入りながら、
「私も、橋本へ来てからこの歳に成るまで、町へ出たことが無いと言っても可《い》い位……真実《ほんとう》に家《うち》の内《なか》にばかり引込みきりなんですよ……用が有る時はどうするなんて、三吉なぞは不思議に思うかも知れないが、買物には小僧も居れば、下婢《おんな》も居る。嘉助始め皆なで外の用を好く達《た》してくれる。ですから、私は家を出ないものとしていますよ……女というものは、お前さん、こうしたものですからね」
 こんな話を弟にして聞かせて、それから直樹が訪ねて行った親戚の家々を指して見せた。いずれも風雪を凌《しの》ぐ為に石を載せた板屋根で、深い木曾山中の空気に好く調和して見える。
「母親《おっか》さん、沢田さんがお出《いで》た」
 とそこへお仙が客のあることを知らせに来た。三人は一緒に母屋《もや》の方へ降りて行った。
 物置蔵の側《わき》を帰りかけた頃、お種は娘と並んで歩きながら、
「お仙や、お前は三吉叔父さん、三吉叔父さんと、毎日言い暮していたッけが――どうだね、三吉叔父さんが被入《いら》しって嬉しいかね」
 と母に言われて、お仙はどう思うことを言い表して可いか解らないという風であった。この無邪気な娘は、唯、「ええ、ええ」と力を入れて言っていた。
 庭伝いに奥座敷へ上ってから、お種は沢田という老人を三吉に紹介した。この老人は、直樹の叔父にあたる非常な神経家で、潔癖が嵩《こう》じて一種の痼疾《こしつ》のように成っていたが、平素《ふだん》癇《かん》の起らない時は口の利《き》きようなども至極丁寧にする人である。
 老人は三吉に向って、よく直樹を東京から連れて来てくれたと言って、先《ま》ずその礼を述べた。
「三吉」と姉は引取って、「この沢田さんは、やはりお前さんの父親《おとっ》さんのように、国学や神道の御話が好きで……父親さんが生きてる時分には、よく沢田さんの御宅へ伺っては、歌なぞを咏《よ》んだものだぞや」
 こうお種が言出したので、老人も思出したように、
「ええ……左様《さよう》だ……貴方がたの父親さんは、こう大きな懐《ふところ》をして、一ぱい書籍《ほん》を捩込《ねじこ》んでは歩かっせる人で……」
 思わず三吉は、この姉の家で、父の旧友の一人に逢《あ》った。背の低い、瘠《やせ》ぎすな、武士らしい威厳を帯びた、憂鬱と老年とで震えているような人を見た。三吉も狂死した父のことを考える年頃である。


 主人の達雄は高い心の調子でいる時であった。中の間にある古い柱の下が日々の業務を執るところで、番頭や手代と机を並べて、朝は八時頃から日の暮れるまで倦《う》むことを知らずに働いた。沈香《じんこう》、麝香《じゃこう》、人参《にんじん》、熊《くま》の胆《い》、金箔《きんぱく》などの仕入、遠国から来る薬の注文、小包の発送、その他達雄が監督すべきことは数々あった。包紙の印刷は何程《どれほど》用意してあるか、秋の行商の準備《したく》は何程出来たか、と達雄は気を配って、時には帳簿の整理のかたわら、自分でも包紙を折ったり、印紙を貼《は》ったりして、店の奉公人を助け励ました。
 そればかりでは無い。達雄は地方の紳士として、外部《そと》から持込んで来る相談にも預り、種々《いろいろ》土地の為に尽さなければ成らない事も多かった。尤《もっと》も、政党の争闘《あらそい》などはなるべく避けている方で、祖先から伝わった業務の方に主《おも》に身を入れた。達雄の奮発と勉強とは東京から来た三吉を驚かした位である。
 三吉が着いて三日目にあたる頃、連《つれ》の直樹は親戚の家へ遊びに行った。その日は午後から達雄も仕事を休んで、奥座敷の方に居た。そこは家のものの居間にしてあるところで、襖《ふすま》一つ隔てて娘達の寐《ね》る部屋に
前へ 次へ
全74ページ中3ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング