》も先生の御宅へ通うように成りましたよ。日曜々々にネ」とお倉が横から。
「へえ、蘭から習わせるネ」と三吉も開けてみて、「西洋画とは大分|方法《やりかた》が違うナ――お俊ちゃんは好《すき》だから、必《きっ》と描けるように成りましょう」
「娘には反《かえ》ってこの方が好い」と宗蔵も言った。「なにも、女の画家《えかき》に成らなくたっても可《い》いんだから」
実は娘の習った画を嬉しそうに眺めて、やがて町を散歩して来ると言って独《ひと》りで出て行った。彼は弟からシミジミ旅の話などを聞こうとしなかった。弟は話せないものと成っていた。
夫の前では言おうと思うことも言い得ないでいるお倉は、実が散歩に出て行った後、宗蔵や三吉の談話《はなし》の仲間に加わった。この三人は、実が長く家を留守にした間、互に艱難《かんなん》を嘗《な》め尽したという心の結合《むすびつき》が有る。弱いお倉、病身の宗蔵は、僅《わず》かに三吉を力にして、生命《いのち》を継《つな》いで来たようなものだった。
「姉さんも白く成りましたね」
と三吉は嫂《あによめ》の額を眺《なが》めた。お倉は髪を染めてはいるが、生際《はえぎわ》のあたりはすこし褪《さ》めて、灰色に凋落《ちょうらく》して行くさまが最早隠されずにある。
「吾夫《やど》もね、染めるのも可いが、俺《おれ》の見ないところで染めてくれ――なんて」と言って、お倉は笑って、「今からこんなお婆《ばあ》さんに成っては、真実《ほんと》に心細い……私はまだお嫁さんに来た時の気分でいるのに……」
「いや、全く姉さんはお嫁に来た時の気分だ――感心だ」と宗蔵が眼で笑いながら。
「人を馬鹿にしなさんな」
とお倉はいくらか国訛《くになまり》の残った調子で言った。この嫂は酷《ひど》く宗蔵を忌嫌《いみきら》っていたが、でも話相手には成る。
「それはそうと、三吉さん」と宗蔵は無感覚に成った右の手を左で癖のように揉《も》みながら、「君の留守に大芝居サ。八王子の方の豪家という触込《ふれこみ》で、取巻が多勢|随《つ》いて、兄さんの事業《しごと》を見に来た男がある。なにしろ、君、触込が触込だから、是方《こっち》でも、朝晩のように宿舎《やどや》へ詰めて、話は料理屋でする、見物には案内する、酒だ、芸妓《げいしゃ》だ――そりゃあもう御機嫌《ごきげん》の取るだけ取ったと思い給え。ところが、それが豪家の旦那でも何でもない。散々御取持をさせて置いて、ぷいと引揚げて行って了《しま》った。兄さんも不覚だったネ。稲垣《いながき》まで付いていてサ。加《おまけ》に、君、その旦那を紹介した男が、旅費が無くなったと言って、吾家《うち》へ転《ころ》がり込んで来る……その男は可哀想《かわいそう》だとしたところで、旅費まで持たして、発《た》たして遣るなんて……ツ……御話にも何も成りゃしないやね」
「真実《ほんとう》に、あんな馬鹿々々しい目に遇《あ》ったことは無い――考えたばかりでも業《ごう》が煎《い》れる」と嫂も言った。
「僕は、君、悪《にく》まれ口《ぐち》を利くのも厭《いや》だと思うから、黙って見ていたがネ」と宗蔵は病身らしい不安な眼付をして、「この調子で進んで行ったら、小泉の家は今にどうなるだろうと思うよ」
「例の車の方はどんな具合ですか」こう三吉が聞いた。
「なんでも、未だ工場で試験中だということですが、事業が大き過ぎるんですもの」と嫂が言う。
「借財が大きいから自然こういうことに成って来る」と宗蔵も考えて、「なにしろまあ、ウマクやって貰わないことには……僕は兄さんの為に心配する……復《ま》た同じ事を繰返すように成る……留守居は、君、散々|仕飽《しあ》きたからね」
宗蔵は噛返《かみかえ》しというを為《す》るのが癖で、一度食った物を復た口の中へ戻して、何やら甘《うま》そうに口を動かしながら話した。
では、どうすれば可いか、ということに成ると、事業家でない宗蔵や商売《あきない》一つしたことの無いお倉には、何とも言ってみようが無かった。で、宗蔵は復た物事が贅沢《ぜいたく》に流れて来たの、道具を並べ過ぎるの、ああいう火鉢は余計な物だの、と細《こまか》いことを数え立てた。嫂は嫂で、どうもこの節下女がすこしメカシ過ぎるというようなことまで心配して三吉に話した。
「三吉さん、貴方《あなた》からよく兄さんに話して下さい」とお倉は言った。「私が何を聞いたッて、まるで相手にしないんですもの――事業の方のことなんか、何事《なんに》も話して聞かせないんですもの」
「道具だってもそうだ」と宗蔵は思出したように、「奥の床の間を見給え、文晁《ぶんちょう》のイカモノが掛かってる。僕ならば友達の書いた物でも可いからホンモノを掛けて楽むネ」こう言って、何もかも不平で堪《た》えられないような、病人らしい、可傷
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