蔵や三吉が迎えに来ていて、久し振で娑婆《しゃば》の空気を呼吸した時の心地《こころもち》は、未だ忘れられずにある。日光の渇《かわき》……楽しい朝露……思わず嬉しさのあまりに、白い足袋跣足《たびはだし》で草の中を飛び廻った。三吉がくれた巻煙草《まきたばこ》も一息に吸い尽した。千円くれると言ったら、誰かそれでも暗い処へ一日来る気は有るか、この評定《ひょうじょう》が囚人の間で始まった時、一人として御免を蒙《こうむ》ると答えない者はなかった。その娑婆で、彼は新しい事業を経営しつつあるのである。
直樹の父親もまた同郷から出て来た事業家であった。この人と実兄弟とは、長い間、親戚のように往《い》ったり来たりした。直樹の父親の旦那《だんな》は、伝馬町《てんまちょう》の「大将」と言って、紺暖簾《こんのれん》の影で采配《さいはい》を振るような人であったが、その「大将」が自然と実の旦那でもあった。旦那は、実の開けた穴を埋めさせようとして、更に大きく注込《つぎこ》んでいた。
格子戸の填《はま》った、玄関のところに小泉商店とした看板の掛けてある家の奥で、実は狭い庭の盆栽に水をくれた。以前の失敗に懲りて、いかなる場合にも着物は木綿で通すという主義であった。彼の胸には種々なことがある。故郷の広い屋敷跡――山――畠――田――林――すべてそういう人手に渡って了《しま》ったものは、是非とも回復せねばならぬ。祖先に対しても、又自分の名誉の為にも。それから嵩《かさ》なり嵩なった多くの負債の仕末をせねば成らぬ。
新しく起って来た三吉が結婚の話――それも良縁と思われるから、弟に勧めて、なるべく纏《まと》まるように運ばねばならぬ。こう思い耽《ふけ》っているところへ、弟が旅から帰って来た。
「只今《ただいま》」
と三吉は玄関のところから日に焼けた顔を出した。
もし正太に適当な嫁でも有ったら、こんなことまで頼まれて帰って来た三吉の眼には、いかにも都の町中《まちなか》の住居《すまい》が窮屈に映った。玄関の次の部屋には、病気でブラブラしている宗蔵兄がいる。片隅《かたすみ》へ寄せて乳呑児《ちのみご》が寝かしてある。縁側のところには、姪《めい》のお俊が遊んでいる。その次の長火鉢《ながひばち》の置いてある部屋は勝手に続いて、そこには嫂《あによめ》のお倉と二十《はたち》ばかりに成る下女とが出たり入ったりして働いている。突当りの窓の外は直ぐ細い路地で、簾越《すだれご》しに隣の家の側面も見える。
夕飯時に近かった。実は長火鉢の側に膳《ぜん》を控えて、先ずオシキセをやりながら、三吉から橋本の家の様子を簡単に聴取《ききと》った。
「木曾の姉さんからの御土産《おみやげ》です」
とお倉はオズオズとした調子で言って、三吉が持って来た蜂の子の煎付《いりつ》けたのを皿に載せて出した。
実が家長としての威厳は何時《いつ》までも変らなかった。彼は、家の外では極《きわ》めて円滑な人として通っていたが、家の者に対《むか》っては厳格過ぎる位。丁度|往時《むかし》故郷の広い楽しい炉辺《ろばた》で、ややもすると嫌味《いやみ》なことを言う老祖母《おばあ》さんを前に置いて、碌々《ろくろく》口も利《き》かずに食った若夫婦の時代と同じように、何時まで経ってもそう打解けた様子を妻に見せなかった。
「お種さんも御変りは御座いませんか」
こうお倉は三吉に尋ねながら、弟や娘の為にも膳を用意した。
宗蔵は三吉と相対《さしむかい》に胡坐《あぐら》にやった。「どうも胡坐をかかないと、食ったような気がしないネ――へえ、久し振で田舎《いなか》の御馳走《ごちそう》に成るかナ」
こんなことを言って、細く瘠《や》せた左の手で肉叉《ホオク》や匙《さじ》を持添えながら食った。宗蔵は箸《はし》が持てなかった。で、こういうものを買って宛行《あてが》われている。
「宗さん、不相変《あいかわらず》いけますね」と三吉が戯れて言った。
「不相変いけますねとは、失敬な」と宗蔵は叱るように。
「ええええ、いけるどころじゃない」とお倉は引取って、「病人のくせに、宗さんの食べるには驚いちまう」
宗蔵は兄の前をも憚《はばか》らないという風で、食客同様の人とも見えなかった。それがまた実には小癪《こしゃく》に触《さわ》るかして、病人なら病人らしくしろという眼付をしたが、口に出して何も言おうとはしなかった。平素《ふだん》から実は宗蔵とあまり言葉も交さなかった。唯――「一家の団欒《だんらん》、一家の団欒」この声が絶ず実の心の底に響いていた。
食後に、三吉は番茶を飲みながら、旅の話を始めた。実は娘の方を見て、
「俊、お前の習った画を三吉叔父さんにお目に懸けないか」
こう言われて、お俊は奥座敷の方から画手本だの画草紙だのを持って来た。
「お蔭様で、彼女《あれ
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