番日影に成りそうな場処を択んだ。丁度旦那と大番頭とは並んだ。待設《まちもう》けた雲が来た。若い手代の幸作、同じく嘉助の忰《せがれ》の市太郎、皆な撮《うつ》った。
三吉が出発の日は、達雄夫婦を始め、正太、お仙まで、朝のうちに奥座敷へ集った。三吉も夏服に着更えて、最早《もう》秋海棠《しゅうかいどう》などの咲出した裏庭を皆なと一緒に眺めながら、旅の脚絆《きゃはん》を当てた。ここへ来がけに酷《ひど》く馬車で揺られたと言って、彼は背中のある部分だけ薄く削取《けずりと》られたような上着を着ていた。
三吉がこの山の中で書いたものは――達雄夫婦の賜物《たまもの》のように――手荷物の中に納めてあった。彼の心は暗い悲惨な過去の追想から離れかけていた。その若い思想《かんがえ》を、彼は静かなところで纏《まと》めてみたに過ぎなかった。
通いで来る嘉助親子も、東京の客が発つというので、その朝は定時《いつも》より早く橋を渡って来た。
朝飯の後、一同炉辺で別離《わかれ》の茶を飲だ。姉は名残が尽きないという風で、
「でも、よく来てくれた。何時でも来られそうなものだが、なかなか思うようにはいきません」
「どうして、それどこじゃない」と嘉助も引取って、「三吉様はこれで何度|郷里《くに》へ帰らッせるなし」
「僕ですか、ずっと前に老祖母《おばあ》さんの死んだ時に一度、母親《おっか》さんの葬式の時に一度――今度で三度目です」と三吉が言う。
「彼《あれ》は八歳《やっつ》の時分に郷里《くに》を出たッきりよなし」とお種は嘉助の方を見て。
「これで、旧《むかし》の家でも焼けずに在ると、帰る機会が多いんだがナア」と達雄も快濶《かいかつ》らしく笑った。
前の晩のうちに頼んで置いた乗合馬車の馬丁《べっとう》が、その時、庭口へ声を掛けに来た。
「叔父さん、馬車が来ました」と正太が言って、叔父の手荷物を提《さ》げながら、一歩《ひとあし》先《さき》へ出て行った。
「では、私はここで御免蒙りますから――」とお種は炉辺で弟に別離《わかれ》を告げた。
「皆さんに宜敷《よろしく》――実にも御無沙汰《ごぶさた》するがッて、宜敷言っておくれや――お前さんもまあ折角《せっかく》御無事で――」
挨拶《あいさつ》もそこそこに、三吉はお仙やお春などにも別れて、橋本の家を出た。達雄はそこまで見送ると言って、三吉と一緒に石段を降りた。
崖下《がけした》には乗合馬車が待っていた。車の中には二三の客もあった。この車はお六|櫛《ぐし》を売る宿《しゅく》あたりまでしか乗せないので、遠く行こうとする旅人は其処《そこ》で一つ山を越えて、更に他の車へ乗替えなければ成らなかった。
「直樹さんと来た時は沓掛《くつかけ》から歩きましたが、途中で虻《あぶ》に付かれて困りましたッけ」
「ええ、蠅《はえ》だの、蚋《ぶよ》だの……そういうものは木曾路《きそじ》の名物です。産馬地《うまどこ》の故《せい》でしょうね」
こんな言葉を、三吉と正太とは車の上と下とで取換《とりかわ》した。
ノンキな田舎のことで、馬車は容易に出なかった。三吉は車の周囲《まわり》に立って見送っている達雄や嘉助や若い手代達にも話しかける時はあった。待っても待っても他に乗合客が見えそうもないので、馬丁《べっとう》はちょっと口笛を吹いて、それから手綱《たづな》を執った。車は崖について、朝日の映《あた》った道路を滑《すべ》り始めた。二月ばかり一緒にいた人達の顔は次第に三吉から遠く成った。
三
弟の三吉が帰るという報知《しらせ》を、実は東京の住居《すまい》の方で受取った。小泉の実と橋本の達雄とは、義理ある兄弟の中でも殊《こと》に相許している仲で、旧《ふる》い家を相続したことも似ているし、地方の「旦那衆」として知られたことも似ているし、年齢《とし》から言ってもそう沢山違っていなかった。
実は、達雄のように武士として、又薬の家の主人《あるじ》としての阿爺《おやじ》を持たなかったが、そのかわりに、一村の父として、大地主としての阿爺を持った。父の忠寛は一生を煩悶《はんもん》に終ったような人で、思い余っては故郷を飛出して行って国事の為に奔走するという風であったから、実が十七の年には最早家を任せられる程の境涯にあった。彼は少壮《としわか》な孝子で、又|可傷《いたま》しい犠牲者であった。父の亡くなる頃は、彼も地方に居て、郡会議員、県会議員などに選ばれ、多くの尊敬を払われたものであったが、その後都会へ出て種々な事業に携《たずさわ》るように成ってから、失敗の生涯ばかり続いた。製氷を手始めとして、後から後から大きな穴が開いた。
不図《ふと》した身の蹉跌《つまずき》から、彼も入獄の苦痛を嘗《な》めて来た人である。赤|煉瓦《れんが》の大きな門の前には、弟の宗
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