君、『へえ未だ生きてますか』というと同じことだ。僕の兄弟は、皆な――僕が早く死ねば可《い》いと思って待ってる。ははははは。食わしてくれれば食うし、食わしてくれなければそれまでサ」
復《ま》た例の調子が始まった、と三吉は思った。
この小泉の家の内の空気は、三吉に取って堪えがたく思われた。格子戸《こうしど》を開けて、空を見に出ると、ついそこが町の角にあたる。本郷から湯島へ通う可成《かなり》広い道路が左右に展《ひら》けている。
橋本から写真の着いた日は、実は用達《ようたし》に出て家にいなかったが、その他のものは宗蔵の部屋に集まって眺めた。稲垣の細君は亭主と言合ったとかで、平素《いつも》に似合わない元気の無い顔をして来ていた。めずらしい写真が来た為に、何時《いつ》の間にかこの細君も其方へ釣込まれた。
「まあ、それでも、橋本の姉さんは父親《おとっ》さんに克《よ》く肖《に》て来ましたこと」とお倉が思わず言出した。
宗蔵も眺め入って、「成程《なるほど》、阿爺にソックリだ」
「姉さんはそんなコワい顔じゃ有りませんがね――こうして見ると、阿爺が出て来たようです」と三吉も言った。
お種の写真顔は、沈鬱《ちんうつ》な、厳粛な忠寛の容貌《おもばせ》をそのまま見るように撮《と》れた。三吉の眼にも、木曾で毎日一緒に居た姉の笑顔を見るような気がしなかった。
「達雄さんもフケましたね」と復たお倉が言った。
「おばさん、御覧なさい」とお倉は稲垣の細君に指して見せて、「達雄さんと姉さんとは同年齢《おないどし》の夫婦なんですよ」
「へえ、木曾の姉さんはこういう方ですか」と細君も横から。
「正太さんはすこし下を向き過ぎましたね。お仙ちゃんが一番よく撮れました」とお倉が言う。
「どうしても、無心だで」こう宗蔵は附添《つけた》した。
三吉は、達雄の傍にいる大番頭が特に日蔭の場所を択《えら》んだことを言って笑った。嘉助の禿頭《はげあたま》は余計に光って撮れた。大きな石の多い庭、横手に高く見える蔵の白壁、日の映《あた》った傾斜の一部――この写真に入った光景《ありさま》だけでも、田園生活の静かさを思わせる。
「こういう処で暮したら、さぞ暢気《のんき》で宜《よ》う御座んしょうね――お金でも有って」と稲垣の細君が言った。「何卒《どうか》、まあ皆さんに早く儲《もう》けて頂いて……」
「真実《ほんと》に、今のような生活《くらし》じゃ仕様が有りません……まるで浮いてるんですもの……」
こうお倉も嘆息した。
故郷《ふるさと》にあった小泉の家――その焼けない前のことは、何時までもお倉に取って忘れられなかった。橋本の写真を見るにつけても、彼女はそれを言出さずにいられなかった。三吉は又《ま》たこの嫂の話を聞いて、旧《ふる》い旧い記憶を引出されるような気がした。門の内には古い椿《つばき》の樹が有って、よくその実で油を絞ったものだ。大名を泊める為に設けたとかいう玄関の次には、母や嫂《あによめ》の機《はた》を織る場所に使用《つか》った板の間もあった。広い部屋がいくつか有って、そこから美濃《みの》の平野が遠く絵のように眺められた。阿爺《おやじ》の書院の前には松、牡丹《ぼたん》なども有った。寒くなると、毎朝家のものが集って、土地の習慣として焼たての芋焼餅《いもやきもち》に大根おろしを添えて、その息の出るやつをフウフウ言って食い、夜に成れば顔の熱《ほて》るような火を焚《た》いて、百姓の爺《じじ》が草履《ぞうり》を作りながら、奥山で狐火《きつねび》の燃える話などをした、そういう楽しい炉辺もあった。
小泉の家の昔を説出した嫂は、更にずっと旧いことまで覚えていて、それを弟達に話し聞かせた。嫂に言わせると、幾百年の前、故郷の山村を開拓したものは兄弟の先祖で、その昔は小泉の家と、問屋と、峠のお頭《かしら》と、この三軒しかなかった。谷を耕地に宛《あ》てたこと、山の傾斜を村落に択んだこと、村民の為に寺や薬師堂を建立《こんりゅう》したこと、すべて先祖の設計に成ったものであった。土地の大半は殆《ほと》んど小泉の所有と言っても可い位で、それを住む人に割《さ》き与えて、次第に山村の形を成した。お倉が嫁《かたづ》いて来た頃ですら、村の者が来て、「旦那、小屋を作るで、林の木をすこしおくんなんしょや」と言えば、「オオ、持って行けや」とこの調子で、毎年の元旦には村民一同小泉の門前に集って先ず年始を言入れたものであった。その時は、祝の餅、酒を振舞った。この餅を搗《つく》だけにも、小泉では二晩も三晩もかかって、出入りの者がその度に集って来た。「アイ、目出度いのい」――それが元日村の衆への挨拶《あいさつ》で、お倉は胸を突出しながら、その時の父や夫の鷹揚《おうよう》な態度を真似《まね》て見せた。
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