うなことまで考えて、種々《いろいろ》と正太の為に取越苦労をしていた。
「若いもののことですもの、お前さん、どんな間違がないとも限りませんよ――もし、子供でも出来たら。それを私は心配してやる」
 こうお種は言って、土地の風俗を蔑視《さげす》むような眼付をした。楽しそうな御輿の響は大切な若い子息《むすこ》を放縦《ほしいまま》な世界の方へと誘うように聞える……お種は正太のことを思ってみた。誰と一緒に、何処を歩いている、と思ってみた。そして、何の思慮も無い甘い私語《ささやき》には、これ程心配している親の力ですら敵《かな》わないか、と考えた。
「私が彼《あれ》に言って聞かせて、父親《おとっ》さんも女のことでは度々|失敗《しくじり》が有ったから、それをお前は見習わないように、世間から後指《うしろゆび》を差されないようにッて――ネ、種々《いろいろ》彼に言うんだけれど……ええええ、彼はもう父親さんのワルいことを何もかも知ってますよ」
 三吉は黙って姉の言うことを聞いていた。お種は更に嘆息して、
「旦那もね、お前さんの知ってる通り、好い人物《ひと》なんですよ。気分は温厚《すなお》ですし、奉公人にまで優しくて……それにお前さん、この節は非常な勉強で、人望はますます集って来ましたサ。唯、親としてのシメシがつかない。真実《ほんとう》に吾子の前では一言もないようなことばかり仕出来《しでか》したんですからね。旦那も今ではすっかり後悔なすって、ああして何事《なんに》も言わずに働いてる。旦那の心地《こころもち》は私によく解る。真実に、その方の失敗《しくじり》さえなかったら、旦那にせよ、正太にせよ……私は惜しいと思いますよ」
 お種は、気の置けない弟の前ですら、夫の噂《うわさ》することを羞《は》ずるという風であった。夫から受けた深い苦痛――その心を他人に訴えるということは、父の教訓《おしえ》が許さなかった。
「代々橋本家の病気だから仕方ない」
 とお種は独語《ひとりごと》のように言って、それぎり、夫の噂はしなかった。
 ゴットン、ゴットンという御輿の転《ころが》される音は、遅くまで谷底の方で、地響のように聞えていた。


 直樹は一月ほどしか逗留《とうりゅう》しなかった。植物の好きなこの中学生は、東京への土産《みやげ》にと言って、石斛《せっこく》、うるい、鷺草《さぎそう》、その他深い山の中でなければ見られないような珍しい草だの、香のある花だのの見本を集めて、盆前に橋本の家を発《た》って行った。三吉は自分の仕事の纏《まと》まるまで残った。
 旧暦の盆が来た。橋本では、先代からの例として、仏式でなく家の「御霊《みたま》」を祭った。お種は序《ついで》に小泉の母の二年をも記念する積りであった。年を経《と》るにつれて、余計に彼女はこういうことを大切にするように成った。
 墓参りの為に、お種は三吉を案内して、めずらしく家を出た。お仙は母に言付けられた総菜《そうざい》の仕度をしようとして、台所の板の間に俎板《まないた》を控えて、夕顔の皮を剥《む》いた。干瓢《かんぴょう》に造っても可《い》い程の青い大きなのが最早《もう》裏の畠には沢山|生《な》っていた。
「お春、お前の髪は好く似合う」
 とお仙は、流許《ながしもと》に立って働いている下婢《おんな》の方を見て、話しかけた。
「そうかなし」とお春は振向いて、嬉しそうな微笑《えみ》を見せた。「貴方《あんた》の島田も恰好《かっこう》が好く出来た」
 お仙も嬉しそうに笑って、やがて夕顔を適当の厚さに切ろうと試みた。幾度か庖丁《ほうちょう》を宛行《あてが》って、当惑したという顔付で、終《しまい》には口を「ホウ、ホウ」言わせた。復た、お仙は庖丁を取直した。
 何程の厚さに切れば、大略《おおよそ》同じ程に揃《そろ》えられるか、その見当がお仙には付きかねた。薄く切ってみたり、厚く切ってみたりした。彼女の手は震えて来た。
 お春はそれとも気付かずに、何となく沈着《おちつ》かないという様子をして、別なことを考えながら働いていた。何もかもこの娘には楽しかった。新しい着物に新しい前垂を掛けて働くということも楽しかった。晩には暇が出て、叔母の家へ遊びに行かれるということも楽しかった。
 墓参りに行った人達が帰って来た。お種は直に娘の様子を看《み》て取った。お仙の指からはすこし血が流れていた。
「大方こんなことだらずと思った」とお種は言った。「お仙ちゃん、母親《おっか》さんが御手伝しますよ――お前さんに御手本を置いて行かなかったのは、私が悪かった」
 お仙は途方に暮れたという顔付をしている。
「これ、袂糞《たもとぐそ》でも付けさんしょ」とお種は気を揉《も》んで、「折角《せっかく》今日は髪まで結って、皆な面白く遊ぼうという日だに、指なぞを切っては大事《おお
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